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日記の終い方

かつて私は『立ち食い蕎麦を食べるように明日を迎えたい日記』という変なタイトルのブログを書いていた。
タイトルでもわかる通り、ちょっと気を衒った感じは否めないが、そこのところはまだ若かったということを考慮して見逃してほしい。
気を衒っていたわりには長く続いて11年も書いていた。
数年前にそのブログをやめたのだが、やめる時にすべてのデータを消去して手元にあった下書きなども全部消去したので今となってはどんなことを書いていたか確認できない。
日記であるから日々の出来事や読んだ本の感想や観た映画の感想などを書いていたのには間違いないが、ひとつの物事についてどんな気持ちで接してどんな感想を持ってそれをどう処理していったかまではまったく覚えていない。
その当時そのブログをフォローしてくれていた方々に、長い間ありがとうというお礼の言葉と共に、私が書いたことはすべて忘れてくださいみたいなことを最後に伝えたことだけは覚えている。
その時にフォローをしてくださっていた中の数人は、偶然にもこのnoteの中で私のことを見つけて下さった方もいて、今もこのnoteをフォローして下さっている。その方たちに聞けば私がどんなことを書いていたか朧げなりにも覚えてらっしゃるかもしれない。でもそれは聞かないでおこうと思っている。違う場所を求めてそれを消去したのに、昔の恋人を思い出すような甘い(甘くない場合もあるが)思い出話に浸るのは私の趣味ではない。

なぜこんなことを書いているかというと、先日いろんな方のnoteをランダムに読んでいた時に、Hさん(許可を得てないので匿名にしています)の記事に目が止まった。
Hさんは「あとで自分で読み返す日記はどこか気取ってしまう」と思っていて、それが嫌だから気取りも何もない本音で日記を書き、そして書いたものはすぐに捨てるのだそうだ。
この記事を読んで少し衝撃を受けて、そのあとなるほどと納得した。
あとで読み返すということは、読むのは自分自身であってもどこかいい人を装うような言い回しになってしまう。自分が読み返す日記でさえそうなのだからネットで公開した他人に読んでもらう日記にはどれほどの気取りが入っているのだろうかと恐ろしくもなった。

というわけで日記は残しておいた方がいいのかという話だが…
また別の方のツイートには『昔の自分の日記を読み返して、あまりにバカな自分がいて読むのが嫌になった』というのがあったり、某女優さんは『見られてもいい日記』というのを書いてらっしゃる。
いろいろ調べてみると日記もなかなか問題児なのかなと思う。
私もたぶん昔の日記を読み返して「なんてバカな!」と思う人の中のひとりだろうし、公開している日記はおそらく「読まれてもいい日記」なのだろう。
ややこしい。

まぁ要は、人それぞれの考え方のでその辺は処理していくのであろうが、私もいつかこのnoteとおさらばする時が来たならば、前回のブログを消去したときと同じように下書きなどもすべて消去しようと思っている。私が存在した証など何の屁の突っ張りにもならない。
いろいろ考えてわかったことは、日記というものは(自分の心というものは)『正直なもの』と『見られてもいいもの』のふたつが存在しているということだ。
ただ著名な方が書いておられる日記の中には、感動を受けるものも多々ある。それは何が違うのだろうと考えた時、たぶんそれは不特定多数に読まれることを前提としていない文章だからだと思う。

私たちの(いや、私の)日記には余計なものが多すぎるのではないだろうか。

読んでいただきありがとうございます。 書くこと、読むこと、考えること... これからも精進します。