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短編小説 「八月の呻吟」2

3−2 

妙子は上がり框にスーパーのビニール袋を置き、サンダルのストラップのホックを外した。やはり右足首だけ食い込んだストラップの跡が赤くなっている。それを見て「なんでこんなことに...」と、一応言葉に出してみるものの、妙子の頭の中はそんなことはどうでもいいという顔つきでサンダルを無造作に脱いで部屋に上がる。上がり框に置かれたままのビニール袋の底からは容赦なく水滴が漏れ板張りになっている玄関先で小さな水溜りを作っている。
部屋は玄関から入ってすぐに6畳ほどのダイニングキッチンがあり、木製の小さなダイニングテーブルが真ん中にある。食器棚と同じタイプの調理台があり、その上には電子レンジやトースターが置かれている。キッチンの続きで4畳半の部屋がありその隣に6畳の部屋がある。両方の部屋にエアコンの室外機を置くのがやっとというくらいの狭いベランダが付いていて、ベランダの端っこにダチュラの鉢植えが置いてあった。殺風景なベランダで唯一その部分だけが異世界のような異彩を放っていた。

「ただいま。スイカ買ってきたよ。それと準ちゃんが好きな袋入りのかき氷も」
妙子は締め切られた6畳の部屋のドアに向かって呼びかける。
返事はない。
「準ちゃん、準ちゃんいないの?」
「出かけたのか…」
ダイニングテーブルにショルダーバックと鍵を置く。そのテーブルの上に一枚の名刺が置いてある。それに気づいた妙子はその名刺を手に取り、誰の名刺だろうとそこに書いてある名前を読む。
『医療コーディネーター 高東   綾乃』
誰?
妙子自身には見覚えがない。しばらく考えて「あっ準ちゃんの知り合いだわきっと」と、納得してその名刺をそのまま置いてあった場所に戻した。
妙子はまた6畳の部屋の前に行って「準ちゃん、返事くらいしたらどうなの」と大きな声で呼びかける。
返事はない。
スーパーのビニール袋は上がり框に置かれたままで、相変わらず水滴が漏れている。
玄関のチャイムが鳴った。
「あっ、準ちゃん帰ってきたの、おかえり」と言いながらドアを開けると、宅配便の配達員が大きな段ボールを抱えて立っていた。暑い中の仕事で額には汗が滲み、ユニフォームも所々汗で色が変わっている。
「受け取りお願いします」と伝票を差し出してくる。
妙子は準ちゃんじゃなかったことのショックを隠しきれず、しばらく配達員の顔を見つめている。配達員は少し苛立ち「印鑑じゃなくてもいいです、ここにサインをお願いします」とボールペンを差し出してきた。
妙子は指で示された箇所に楷書で『白川妙子』と、書いた。
配達員はちょっと変な顔をして「荷物ここでいいですか」とスーパーのビニル袋の横に無造作に置いて帰っていった。
妙子は荷物の上に貼ってある送り状を見ながら憂鬱になる。最近知らな人から荷物が届く。手紙や葉書も来る。荷物の中身はいつも野菜、お米、醤油などの食品ばかりだけど、時々その食品の隙間に洗剤やタオルなんかも入っていることがある。この人は何の目的で私にこれを送ってくるのだろうと憂鬱と共に不安にもなる。
キッチンの片隅にはそれらの荷物がそのまま置かれている
その荷物は山形県から出されていて、送り主は『白川サト』となっていた。
白川サト…聞いたことあるような気もするが、考えても思い出せなかった。

妙子は冷蔵庫を開けた。八等分のされたスイカが冷蔵庫いっぱいに入っている。その中のひとつを取り出し食べやすいように切り分ける。それをお皿に乗せて6畳の部屋の前に行って「準ちゃんスイカ切ったよ、一緒に食べよ。開けるよ」そう言って6畳の部屋のドアを開けた。
誰もいない。
妙子はまるで予想もしてなかったことのように狼狽する。
「準ちゃん隠れてるなら出てきてよ」と押し入れの中や、カーテンの隙間を探す。誰もいない部屋に呆然と立ち尽くし「準ちゃん、私を置いてどこ行っちゃったのよ」と、お皿ごとスイカを部屋の壁に投げつけた。
何度も同じことを繰り返しているのだろう。白い壁のあちこちに赤いスイカのシミがそのまま残っている。時間によってその赤さは濃淡を表し、古いものは赤というよりくすんだ茶色になっていた。床にはスイカの破片がいたるところにあり腐って異臭を放っている。所々、スイカではないシミもある。それが何であるかは誰も妙子にさえわからない。スイカをぶちまけたあと、その部屋にしばらく佇むのが妙子の最近の暮らしとなっていた。それは3分のときもあれば、3時間に及ぶときもあった。
ふと我に返った妙子は、汚れた部屋の様子を見て愕然となる。
誰がこんなことを…と、思っても掃除する気力はなくそのままキッチンの方へ戻り、上がり框に置きっぱなしのビニール袋を流しまで運び、中から八等分に切ってあるスイカを取り出しそれをまた冷蔵庫に入れる。袋に入ったかき氷はもう水になり、どこから漏れたのかわからないが半分ほどの量になっていた。
「私、毎日こんなことしてるね」と、自分自身に問いかけるが、そうする理由は病気のせいだとわかっているがどうすることもできなかった。

流しの棚に『J』と書かれたコップと『T』と書かれたコップが並んで置いてあり、そこにはそれぞれの歯ブラシが立てかけてある。同じ会社の同期入社の準次とは3年間の付き合いのあと結婚の約束をして1年前一緒に住み始めた。結婚準備が着々と進む中、妙子は会社を寿退社して専業主婦になって準次を支えて生きていくことに幸せを感じていた。落ち着いたら、もう少し広い部屋に引っ越して犬を飼いたい。子供ができたら得意の裁縫で子供服を作ってあげたいなど、他愛もない夢を描く普通の女性だった。
結婚式を2ヶ月後に控えたある日、妙子は目眩を感じて横になっていた。目眩自体はすぐに治るものの、ひどい時は1日に数回起きて、気分的にも落ち込みがちになっていた。一度病院で診てもらった方がいいと準次に言われて病院に行ったがはっきりした病気の種は見つからず、大学病院を紹介してもらい本格的な検査を受けることになった。数日間にわたりいろんな検査を受けた結果、妙子の病気は想像もしていなかったものだった。
妙子は今も『J』と書かれたコップと歯ブラシを捨てられないでいた。


つづく


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読んでいただきありがとうございます。 書くこと、読むこと、考えること... これからも精進します。