【掌編小説】忘れた世界からの余寒見舞い
水道の水のぬるさに、春の後ろ姿が見えそうなくらいまで季節が進んだことを感じる。
春爛漫という輝かしい春はあまり好きではないが、朝晩に毛織りの物を一枚羽織りたくなるようなあやふやな春は嫌いではない。
お正月用にと飾った松のスワッグもまだ壁に掛かったままだ。松の葉先が少し緑から色の抜けたような黄緑に変わってきつつあり、そろそろ外さないとと思っているが、特に理由はなくそのままのしてある。今朝もそれを見た。そして「そろそろ外さないと」といつもと同じことを思い、次の瞬間にはもう他のことに気をとられている。たぶん今日も明日もそのままになっているのだろう。
リビングのテーブルの上に置かれた一枚の葉書に目がいく。昨日ポストに入っていた余寒見舞いの葉書だ。ポストから取り出して「余寒お見舞い申し上げます」の文字を見た時に、今時こんな風流なことをするのは私の友人の中にはいない。誰だろうと差出人を見てみるとそこには知らない女性の名前があった。
吉岡圭子...しばらく考えてみたがわからなかった。
書き出しの「余寒お見舞い申し上げます」の筆跡は若い人ではなく年配の方のような感じがする。そして葉書に描かれた絵柄も一昔前の雰囲気を醸し出している。ポストの前に立ったまま文面の続きを読んだ。
『余寒お見舞い申し上げます。わたくし河井俊彦の姉で吉岡圭子と申します。この度は弟、俊彦に年賀状をありがとうございました。残念ながら俊彦は昨年九月に永眠いたしました。俊彦が生前たまわりましたご厚誼に対しまして、心からお礼を申し上げます。
それと言い訳になり心苦しいのですが、わたくしは遠方に住んでおりますゆえ、俊彦の家財道具を整理するの時間がかかり、ご連絡が今になりましたことをお詫びいたします。
立春とはいえまだまだ寒の戻りもございましょう。
どうかお体を大切に。吉岡圭子』
そういうことか...と思う。河井俊彦のことは覚えている。だが特別な関係ではなく、以前付き合っていた彼の友人だった人だ。カメラが趣味で素人っぽい女性を撮りたいからモデルになって欲しいとお願いされ、私と彼と河井俊彦と3人で休みの日に公園に行ったり海に行ったりして写真を撮ってもらったことがある。
モノクロ写真が好きで自分で現像して楽しんでいたようだ。気に入ったものは大きく引き伸ばして私にもプレゼントしてくれた。それから何年かして私が彼と別れたと同時に河井俊彦とも関わることはなくなった。年賀状も住所を知っている知人という枠で事務的に出していただけだった。河井俊彦からの年賀状も私と同じように事務的なものですべて印刷された年賀状に申し訳程度に「今年もよろしくお願いします」と直筆で付け足してあっただけのものだ。
テーブルの上に置かれた葉書は昨日から所在なくそこにある。吉岡圭子さんに返事を出すべきなのか、お供えの何かを送るべきなのか、そんなことはどちらも必要ないのか、あまりに丁寧に書かれた葉書に私は惑わされている。どうせならもっとぶっきらぼうに書いて欲しかったと独りよがりな考えも横切る。
確か河井俊彦が撮った写真がまだあるはずだ。クローゼットの奥にある写真が入っているダンボール箱を取り出してみる。引き伸ばされた写真だけがA4の封筒に入っている。そっとそれを出してみると、若い頃の私が公園の木の下で微笑んでいる。砂浜で海を見つめている。橋のたもとで佇んでいる。上手な写真とはいえないがいい写真だ。河井俊彦の思惑通り素人っぽい写真に仕上がっている。写真を見ていても、不思議と悲しみとか寂しさは湧いてこず、さて私はどうしたものかと思う。テーブルの上にボールペンが転がっているのが目に入る。咄嗟にボールペンを取って写真の裏にメモを残す。
撮影:河井俊彦 モデル:若い頃の私
場所:新宿公園にて、千葉の海にて、どこか知らない橋のたもとにて
それだけを書いてA4の封筒に写真を戻す。一緒に吉岡圭子さんからの葉書をそっと入れた。
スワッグの松に絡み付いていた南天の赤い実が床に落ちていた。乾燥に耐えきれなくて落ちたのだろう。
「寿命だね」と言いながら摘んでゴミ箱に捨てる。
見上げると色の変わった松の葉先「そろそろ勘弁してくれよ」と言わんばかりに私に何かを訴えてくる。それも壁から外す。「寿命だね」と言いながらスワッグをゴミ箱へ捨てる。ガサッガサッと乾いた音がする。
よくわからないが、自分の中にある感情をちゃんと捨てるのは自分自身の責任なのだと思う。
九月か...
いい季節に逝ったのだね。
完
*この小説は3年前に書き上げたものに加筆修正したものです。
*見出しの写真と本文の写真は関係ありません。
*登場人物の名称は全て架空のものです。実在の人物とは関係ありません。
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