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タイパとモモとダークソウル

先日NHKゲームゲノムでダークソウル開発者の宮崎英高氏へのインタビューで「信じてもらえないかもしれませんが、美しいものを作りたいという気持ちはあります」というのがあって、すごく良いなと思った。

「ホラー映画を作ってる人たちは笑いながら作ってる」というのは、僕の座右の銘のようなものだ。すごく怖いシーンを撮影しているときに、本当に怖がってヒー!!と声を上げていては撮影の邪魔になるから、というのもあるけど・・・・
”怖い”と”美しい”は直結しているんだと思う。心を揺さぶるという意味で恐怖と感動は、とても近い。だから心揺さぶるシーンを作るのは単純に楽しい作業なんだろう。
ダークソウルは不気味でおどろおどろしいが、そこにある美しさは、恐怖という人間の心をシンプルに体験できるところだ。普通の人が目を逸らしたくなるおぞましさもまた、現実から逃避させるエッセンスになっている。見た目の話だけでなく、ゲームシステムもUIも洗練されていて美しい。非の打ち所がないゲームシリーズの一つだ。
だけどダークソウルが提案している『美しさ』は、その見た目やUIだけではないと僕は考えている。


正しさを求める人たち

最近、タイパという言葉を見かけるようになった。動画を早送りしたり、並行で作業したりして効率よく情報を処理していく若者行動の総称らしい。コスパにつらなる語彙としてのタイパ、なんだそうだ。
この概念は昔からある。速読だ。
たくさんの本を読むなら速く読む技術があった方がいい。僕もフォトリーディングの鍛錬をしていた時分があるし、速読の良さはわかる。

だけども、それ自体がやりたいことか?と問われると、僕はちょっと違うような気がする。
あくまで速読は事務処理の延長で、日常生活に資するなにかを効率よく摂取する”手法”でしかない。
極端なこと言えば、そんなことやらずに楽しく暮らせるならそっちの方がいい。それが無理だから、日々情報を集め、勉強すべきだと自覚したから頑張って読書をしていた。

タイパの話を聞いたとき、これは完全に『モモ』の世界観に、なってしまったのだと確信した。

内容について要約すると「時間泥棒の黒い人たち」が人間から時間を盗んでいくのに抵抗する有名ファンタジー作。

思えば音楽レッスンでも「これって合ってますか?」だとか「正しいやり方を教えてください」とかを気にする人は多い。音楽なんて自分で間違いを犯しながら学ぶものなのに、極端に失敗を恐れているように見える。
それは失敗する”時間がもったいない”からで、タイパの発想に立つと、ミスっている時間をより短くして、できるだけ最短で成功したい。だからレッスンに来て、最短ルートを持ち帰りたい。

僕のように「失敗することが大事ですよ」なんて言う先生は、人によっては無能扱いされてしまうだろう。まぁそれは甘んじて受け入れるとして、音楽が失敗で上手になるものであるのは変わらない。スポーツも、科学も文学もきっと同じ。


本当に求めているのは『正しさ』ではないはず

ダークソウルが『美しい』を作りたかったという話と、タイパの発想はまるで逆の視点だ。時間がかかって苦労する体験と、手っ取り早く解決する効率性は対立している。

(偉そうに岡本太郎のような言い方になるが)『美しい』というものは、自分の心に響くということだ。『正しい』というものは、周りの人と整合性がとれているということだ。

僕らが生きていく中で『正しさ』が大事なのは、生活するためには社会と共に歩かなければならず、横並びして行進していかねばならないからだ。そうすることで稼ぎ、生活をスムーズにする。
翻って、何のために稼ぎ、生活をスムーズにしたいのだろう。生活の中にある心の充実を求めているからじゃないだろうか。本来求めているのは、金銭的な充足による”心”の安定ではないのだろうか。もう一つ先にある、心の充実のために働いているのではなかろうか。
それは究極のところ「自分のため」であり、自分が「いいね!」と思える瞬間に立ち会うためでは、なかったのだろうか。決して”誰か”に合わせるために生きているわけでは、ないはずで。
時間の貧しさが蔓延しているから『正しさ』を欲していると言ってもいい。本当に求めていたのは『美しさ』だったはずなのに、それは自分自身が感動することであるはずなのに、誰かの目線ばかりを気にしていやしないか。


徒労が『美しい』であるために

ダークソウルは徒労のゲームだ。頑張ったけど無理だった、なんの成果も得られなかった、が沢山ある。だけどそれはゲームの中のパラメーターについてであって、プレイヤー自身のスキルアップは確実に獲得している。そこがダークソウルの『美しさ』であると、僕は思う。

楽器や音楽をやっていると「うまくいかなかった」「大失敗した」という経験は何度もある。だけど、たとえばステージではちゃめちゃにダメだったとしても、それに向かうべくして練習したり制作したりする経験は、(ありきたりな言い方だけど)決して無駄ではない。
もし芸術に数値的なパラメーターがあって、スコアをつけられることがすべてだとしたら、『正しい』ことが要求されている。誰かと横並びになって歩けているか?という社会性が問われている。
だけど『美しさ』はそうではない。自分が、自分自身で心が揺さぶられる体感。それは替えが効かない、自分だけの体験のことだ。

ダークソウルが伝えたいのは、そういう『美しさ』なのではないだろうか。没頭して体験する時間が、いかに素晴らしいことか。その体験の掛け替えのなさこそが『美しさ』なのだと思う。

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