倫理や道徳は個人差がある
1995年、地下鉄サリン事件を挟んでオウム真理教というカルト教団が世間を震撼させた。以後、日本は宗教アレルギーを覆っている。もちろん”まとも”な宗教団体はたくさんあるし、正月には初詣にいくくらいには日本人にとって宗教は身近なものだ。
他方、創価学会や天理教のようなわりと新しい宗教団体もすでに2世代以上続いている。天理教の家に生まれた友人もいれば、創価学会の家庭で育った知人もいるのだが、僕にとっては彼ら彼女らがカルト教団の一員ではなく、ただただ一般的な社会人だ。
一般的な社会人なのだが、彼ら彼女らは初詣に行くことなく育っていたりする。友人と一緒におみくじを引いたとき、それは30歳前後だったが「はじめておみくじを引いた」とはしゃいでいたのをよく覚えている。同じ日本に住んでいても、文化が少し違う人たちがいることを僕は早めに知ることになった。
小さい頃に「お天道様がみてる」とか「鬼が出る」とかいう神話性によって躾けを受けてきた人は少なくないと思う。僕もそうだったし、今でもそのようなストーリーでもって道徳や倫理を学ぶ子どもは多かろうと思う。こういった土着の倫理観や道徳観念を、僕らは当たり前のように全国民が持ち合わせていると考えてしまいがちだ。
だけど前述の通り、お天道様も鬼もなく育った人もいる。あるいはオウム事件以来のアレルギーにより、そのようなスピリチュアルな世界設定を嫌悪する層が一定ある。悪いことをしたら罰せられるという考え方は世界中に存在するが、その道徳は必ずしも全員が持ち合わせているとは限らない。
より自己中心的に欲求を探求すべきだと育てられた人もいる。誰かを傷つけても良い、自然の摂理だから弱肉強食の世界で生きるべきだと育てられる人もいる。
誰かにやさしくしましょう、親切はいずれ自分に舞い戻っているといった道徳観を僕は支持したいが、そうでない人がいる事実も忘れてはならない。
僕は「迷惑をかけてもいいから突進するべき」という価値観があってもいいと思うし、弱肉強食の世界であることは事実だと思う。だけど、社会はそれでも「もし自分が弱者になったら?」という予見リスクを補うために倫理や道徳を発明し育ててきたのではないだろうか。その価値について疑う由もない。
なので、文化として「お天道様がみている」「鬼が出る」といった寓話を残していく必要があるし、文化には分かりやすく”価値”があるものだと考えている。無法者がお金や承認欲求を求めて闊歩する世界において文化は軽視されがちだが、そうであるからこそ、文化的な財産は守って育てていく必要があるのではないだろうか。
同時にナショナリズム的に「日本人だから」だとか「日本に住むなら」といって”それ以外”を排除することはスマートではなく、考え方が違う人たちにも浸透するストーリーを用意する必要性が高まっていくのではと予感している。