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「障害」は「個性」か?

 先月、池袋シネリーブルで上映された NTLの『夜中に犬に起こった奇妙な事件』(原作:マーク・ハッドン、脚色:サイモン・ステファンズ、 演出:マリアンヌ・エリオット)を観た。


 15歳の少年クリストファーは、母親を心臓発作で亡くし、父親と二人で暮らしている。
 ある朝、隣人シアーズ夫人の飼い犬が園芸用のフォークで刺殺されているのを発見し、可哀想に思ったクリストファーは思わず犬を抱き抱える。だが、その様子をみたシアーズ夫人が警察に通報し、犬を殺した犯人ではないかと疑われ、彼は事情聴取を受けることになる。しつこく問いただされたクリストファーはパニックになり、警官を殴ってしまう。
 一旦は逮捕されたが、彼が自閉症だと知った警官は「警告」扱いとして釈放する。家に戻ったクリストファーは、犬を殺した犯人を見つけ出すべく、周囲の人々への聞き取り調査を開始する。
 だが、犯人探しの最中、彼は自宅の引き出しであるものを発見する。それは、子供の頃に死んだと聞かされていた母親が自分に宛てて書いた、大量の手紙だった。いてもたってもいられなくなったクリストファーは、ロンドンに住んでいる母に会うため、人生で初めて、一人で旅に出る決断をする。

 クリストファーは自閉スペクトラム症の少年だ。彼は特別支援学級に通っており、一般的な15歳の少年とは少し違う。例えば、人の表情から感情を読み取ることが苦手、比喩表現を理解できない、人に体を触られるのを極端に嫌がる、騒音がしたり人が多い場所でパニックに陥るなど、普通の人が簡単にできるとされている行為が彼にとってはとても難しい。以上は、私が上演映像から読みとった彼の“障害”である。
 ところが、劇中には“自閉症”などの表現は一度も出てこない。彼は、普通とは少し違う個性的でこだわりの強い、数学が得意な少年として描かれる。この点について、原作者のマーク・ハッドンは「これは“障害”についてではなく、“違い”について書かれた物語だ」と公式的なインタビューで述べており、作り手が、障害を障害として扱うのではなく、あくまでも個性として扱う意図で創作を行っている様子が読み取れた。
 
 演出のマリアンヌ・エリオットは、クリストファーが住む世界の浮遊感を見事に形にした。
 クリストファーが電車に乗って母の住むロンドンへ向かう時、パニックに陥りそうになった彼は目をつぶり、頭の中で次に出す足を唱える。「右、左、右、左」という掛け声と共に、足元のパネルに進むべき道が浮かび上がる。数学の問題に取り組む時、床や壁のパネルには、彼が頭の中で思い描いた図形や数式が大きく映し出される。難解な問いが、目にも止まらぬ速さでいとも簡単に解かれていく。視界の全方位を囲ったLEDパネルは、観客を異空間へと誘う。
 
 だが、見事な映像技術に感心する一方で、私は戯曲の構成と描写に疑問を感じた。
 劇中、ほとんどのシーンは主人公の目線で描かれている。彼が一人で旅に出る場面からは特に、壁と床のLEDパネルを、エレクトロニックな音楽とリンクさせながら光らせ、視覚と聴覚に訴えかける演出が多い。一方で、合間に挿入される主人公以外の人々が会話する場面などでは、真逆の演出がなされている。音楽は消え、照明は地明かり(演技エリアを均等に明るく見せる照明)に変化し、俳優の発する台詞に意識が集中する。作品の見せ場と言えるスペクタクルなシーンの連続が、時折、挿入される静かな会話のシーンを、意図せず際立たせてしまっている。

 この作品は、健常な人間が作った舞台に過ぎないのではないか。上演が進むうち、一つの仮説が確信へと変わっていった。

 クリストファーを、障害者ではなく「人とは少しだけ違う人間」として描こうとした演出には共感ができる。だが、ただでさえ他人の感情や思考を完全に理解するのは難しい。それに加えて障害のある登場人物を、徹底的なリサーチ無しに「現実的な存在」として描くのは困難だ。
 演出家は、“障害”をあえて直接的には描かないと判断した。両親や周囲の人々のシーンはリアルに、対して、障害者であるクリストファーのシーンは空想的に描かれることとなり、結果として、“障害”という溝をくっきり浮かび上がらせてしまっているように感じられた。

 『夜中に犬に起こった奇妙な事件』は、原作が全世界で一千万部を超えるベストセラーとなっている。2012年にイギリスのロイヤル・ナショナル・シアターにて舞台化され、その成功を受けて、アメリカ、イスラエル、メキシコ、日本、韓国、など十数ヵ国で上演されてきた。日本はもとより、多くの観客が今作を「自閉症を知ることができる作品」と捉えている点についても、私は違和感を感じる。

 これは、あくまでも障害を“想像”した作品にすぎない。
 そもそも「障害者の“障害”を“個性”として描く」その発想自体が、健常な肉体を持つ人間のエゴであり、障害者を対等に扱う気がないと見なされる可能性をはらんでいる。
 演劇なのだから、創作なのだから、それでいいと言われればそれまでだ。実際、先端技術を駆使した舞台美術は見事であり、俳優の芝居も大変洗練されており、エンターテイメントとしての完成度は高かった。
 だからこそ観客は、目の前で繰り広げられる華麗なパフォーマンスによってクリストファーの“障害”を完全に理解したと思うべきではないのではないか。

 上演を踏まえても、私は、クリストファーの“障害”を“個性”だとは思えなかった。補足するならば、それが“個性”か否かを決めるのは、健常者である我々ではなく当事者自身であり、また、作品の中で“障害”が“個性”として描かれているかどうか判断するのは観客だと思った。
 作り手は、事実を美しく明るいものにできる権利を持っている。同時に、私たち作り手にできるのは根本的な問題解決では無く、社会に対する問題提起でしかないと忘れてはならない。それらを理解した上で、無責任な″美化″に逃げた作品を公開するのだとしたら、それは作り手の怠慢に他ならない

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