酔いべー②元カレの名前を忘れちゃった件について
本日は、久しぶりに弁護士のお方の独立記念パーチーのお疲れ様会(謎に数回目)に参加してきて、
ゆるっとまるっと焼肉屋さんの貸切状態から
現在、ほろ酔い状態です。こんにちは。こんばんは。
ただ、そんなに気合が入っている訳では無いので、
ゆるゆるって書いていきたいのは、
タイトル通り、元カレの名前を忘れちゃってた件、について。
■元カレの、名前
今日、スマホでふと見かけた男性の画像が。
ん?誰かに似てる…このヒゲの感じ…と思って。
(はっ!元彼に似てる!と直ぐにはならなかった時点で察し)
よくよく記憶を洗っていたら、元カレだった。
彼のことは、苗字で呼んでた。
苗字+「さん」付けで。
歳は15くらい離れてた。(誰も聞いてない)
ちゃんと独身だった、と思う。(聞いてない)
彼のことが大好きで、
私の過去にあった色んなことあんなことこんなことは、全て大いなる課題を解決するために与えられた宿命なんだと厳しくも思っていたあの頃を覆して、
ああ彼と一緒に家庭を築くことも良いのかもしれない、と本気で思ってた。
彼が離れていく現実など、嫌だからとかではなく、ただただ全く想像がつかなかった。
お互いにとって、お互いが求めるものを埋め合うどんぴしゃのパートナーとも思ってた(気がする)。
だから、いつか、彼のことを名前で呼んじゃったりするのかな、なーんて乙女なことを思って、
ふと口に出してみたりしてた。
(いやほら籍とか入れたら私も同じ苗字だし)
彼の名前を、呼ぶ練習したりして。
今これを描きながら、あ、これ、翌朝読み返したらめっちゃ恥ずかしくなるラブレター的なあれだと思ってます。完全に黒歴史です。
私にとって、彼の名前は
とても崇高な存在だったように思う。
愛おしくて、愛らしくて、思い出すとくすぐったくて、まともに目を見て呼べなさそうな。
いつか、時が経って、いつかそれが当たり前になって、
恥じらいも感じなくなる日が来るのかなぁなんて思ってた。
でも、彼との未来があれやこれやとなくなって、
離れて数ヶ月以上経つ今、
彼の名前を気合い入れて思い出そうとしても、思い出せない自分がいた。
漢字は浮かんでる。
あれ、その読み方ってどんなんだっけ?誰かが呼んでたはずだな、あれ、なんだっけ?
数分間記憶の中をさまよって、やっとたどり着いた。ああ、そういえば。
お陰様で、なんかいろんなことを思い出してしまった。
と共に、私の時間は確実に進んでいるんだと思った。
■記憶の隅っこへ
日常の中で触れないものは、どんどん後にあとに置き去りにされていって、
新しく生まれる関係性や人達、出来事で、着々と脳内は支配されていく。
どれだけその瞬間大事に思ったことでも、どれだけ頭の中で焼き付けようと誓ったことでも、
どれだけ愛する人を思う気持ちも。
ふと思うのは、その時神様の前で誓う結婚式での永遠の愛は、その後いくつ破られ続けるんだろうって。
もちろん、自分以外の人達の話をしてるんじゃなくて、
まさに、私も例外なく。そしてまさに、今。
大切で仕方なかったことが、
時間が経てば、気づいたら記憶の隅っこにいて。
気づいたら、「ああ、そんなことあったな」なんて笑い話になる。
人間の脳は都合よくできているなぁ。
都合良く、記憶を塗り替えることだってできる。
良いことも悪いことも。
書き足すも消し去るも。
こうあって欲しいという願望は、恍惚と記憶を美化するし、あの人を少しイケメンにしちゃったりする。
それが、酒の肴になった時には、
事実に上乗せされた出来事が口から口へと世の中を回る。
時々読む刺激的な記事の内容に、
本人からどんな関係性の誰と誰と誰を介して結果こんな言葉選びと打ち出しになったんだろうって思う。
かく言う私だって、メディアなしには、世の中を知ることすら出来ないのに。
こうなると、全ては一言に集約する。
「だって、人間だもの」
■だって、にんげんだもの。
言葉を操るのは、神様じゃないもの。
今日話をしてた中印象的だったのが、「歴史は全てフィクションだ」という言葉。
結局、教科書も歴史の書物も聖書も、事実を含んだフィクションであり、
人の「こうあってほしい」という欲望や、記憶の中で美化された事実がきっと大半を占めている。
だってそりゃあそうだ。
そうやってでしか、残すことも伝えることも出来ないもの。
言葉が最大限伝えられる役割の中で、制約があるからこそ魅力的で、残せるからこそ何よりも強い。
にんげんだもの。
ここまで来てふとおもいだしたのは、私が哲学にハマったきっかけ、カントの「物自体」という思想。
この思想を高校生の時知った瞬間、ビビっと来た。
なるほどと思った。
すごいと思った。
この学問を、極めたいと思った。だから大学では哲学科を志望したんです。
ふつう考えたらたどり着けない領域を言語化している点と、
今までの私のあらゆる記憶が結びつくことを根拠づけた点。
(まさに、私のストレングスファインダーno.1の着想が刺激された)
なんで私が哲学(高校時代は倫理)に魅了されたのかは、
ちゃんと別で書きたい。
転職面接中に、結構聞かれる。(でも多分たいした理由はなくて、ほぼ感覚的)
気になった人は調べてみて欲しい。
だいたい集約すると、人は色んな因果関係や枠組みを心の内に持っていて、
世の中に起きた事象は全てそれを介して解釈される、という話。
逆に言うと、その枠組みが当てはまることなしには、そこで起きた事象を人は捉えることが出来ないということ。
そこで起きた事象は、事象Aである。
ただ、事象が人を介した時、その解釈は事象Bであり、Cであり、Dである。
完全に同じものなど、存在はしないし、事象Aはそのまま誰かの記憶には残らない。残ることが出来ない。
これに描きながらめっちゃワクワクしてる私は、結構な変態だな…
元カレの名前を思い出せないところから、なんでここまで話が派生したのかはわからないけど、
とりあえず人の記憶の限界と、構築される過程について書いた。(気がする)
人の記憶って曖昧だなぁ。
常に更新をしてなきゃいけないんだなぁ。
だからこそ、大切な人の「そばにいる」って大事なんだな。
『メモの魔力』という本を前に読んで、(前回の記事にも書いたけど)
残すこと、記憶を遡ること、自分の言葉にすること、
ノートに書き落として言語化することで、それらは長く濃く残っていく可能性が高くなる。
書き落とすことを意識した時、
経験している日常に、
いかに多くの、自分の枠外の発見があるのか。
それを認識するだけで、いかに人生が変わりうるのか。
常に常に、発見なんだと。
未知の世界に連れてってくれうるのだと。
なんかめっっっちゃ、ワクワクする。
素敵な夜。このまま、ほろ酔いのまま、寝ます。😊😊
皆さま、
おやすみなさい。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?