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『おもひでぽろぽろ』(高畑勲)のリアリズムと諦念について

死ぬのを恐れて、生きることができない。

おもひでぽろぽろ主題歌『愛は花、君はその種子』より
原曲『The Rose』/日本語訳詞は高畑勲によるもの

◆エンディングをめぐる解釈

 『おもひでぽろぽろ』は"鏡"のような映画にするつもりだった、と高畑勲は語っている。(ジブリの教科書『おもひでぽろぽろ』「反響の大きかった映画/意見の分かれたラストシーン」より)この作品について語ろうとするとき、人々は作品に批評めいたことを言いつつも、その実、自分の人生や価値観を語らざるを得ないのだと。
 原作の『おもひでぽろぽろ』が持っている構造をそのまま映画で生かそうとしたこの試みは、ある程度成功をした。誤算だったのは、監督自身が「結論としてはぼくの作り方が下手だった」と振り返るエンディングの受け止められ方だ。

宮崎駿
観終わった途端に『ああ、もうとうとう崖っ渕まで来たな』っていうね、『これ以上やっちゃ駄目だ、これはもう極まった』っていうね(笑)。要するに『百姓の嫁になれ』って演出家が叫んじゃったわけですね。東京の中でなにをゴタゴタ言ってるんだよっていう。

『風の帰る場所』より

 当初のシナリオ案は、タエ子が東京行きの新幹線に乗るところで終わっていたというが、紆余曲折の結果、実際の映画では、電車に乗り込んだタエ子が主題歌と小学5年生の自分(とクラスメートたち)に後押しされながら、山形に戻っていく場面で終わる。
 引き返す描写には明確なセリフもなく、解釈の余地が残されているものの、監督が想定した解釈の幅と観客の幅には明確な差異があった。
 当該場面の監督の意図は「”嫁に行く”のでも、農業に身を投ずるのでもなくて、まず一個の男性としてのトシオともう一日でも二日でも付き合いたいから」というものだったが、残念ながら、多くの観客にとっては『百姓の嫁になれ』、もしくはそれを暗示した理解で受け止められることになった。
 思うに、このエンディングへの違和感は、トシオとの結婚を想起させること自体ではなく、普遍的な経験や心情に観客を立ち会わせて”鏡”の役割を果たしてきたタエ子が、このエンディングで突然、勝手な意思を持って動き始めたように見えたことではないだろうか。
 だが、車で走り去るトシオと27歳のタエ子を、暗闇の中で沈鬱な表情で見守る小学5年生のタエ子に注目をすれば、この2人の行く末を無邪気に祝福する結末でないのは明確だ。
 観客は、自身の”鏡”であった27歳のタエ子から、小学5年生のタエ子と同様に切り離されて取り残される。この違和感、冷や水を浴びたような感覚は、やはり高畑勲作品独特の後味だ。どうしたって映画から現実に戻らざるを得ない。

 ともあれ、『おもひでぽろぽろ』について語られるのが、とかくエンディングの解釈ばかりなのは残念なことだろう。それは例えば、『火垂るの墓』において、延々と西宮のおばさんについて議論を交わされるのと似ている。
 ここでは、それは高畑勲的なリアリズムと諦念について語っていきたい。 

◆「感じがでている」リアリズム

 27歳のタエ子のパート(「山形編」)は、リアリズムに言及される機会が特に多い。たしかに山形編は写実性を追求した作画と美術で「クソリアル」(by高畑勲)だ。セルアニメーションで顔の「しわ」を描くという前代未聞の実験の成否はともかく、山形編の「クソリアル」さは「実写で撮ればよい」という揶揄を受けることさえあった。
 だが、高畑勲のリアリズムは写実性とは一線を画したものだろう。『アルプスの少女ハイジ』以来、高畑勲は実感を掴む描写を追求してきた作家であり、それは実写のカメラで映る映像をアニメーションで再現することとは、似て非である。
 『おもひでぽろぽろ』で、高畑勲的に実感を掴んでいる描写は、実は小学校5年生の場面が印象的なのだ。学級会で「廊下で走る生徒を捕まえるために走ってよい」という提案に、予期した反論が来た瞬間の女生徒のしめしめとした顔や、隣のクラスから誰かが誰かの事を好きだと、浮かれた顔で告げ口にくる3人組の一糸乱れぬ動きなど、非常に「感じが出ている」。どれも原作通りの展開ではあるものの、原作には一切ないディテールだ。

告げ口にくる3人組

 特に白眉の描写は、ふと、タエ子が異性として意識することになった少年と出くわした際にする会話、「あめの日と、くもりの日と晴れと、どれが1番好き?」の場面だろう。 

原作の該当場面

 原作では会話を交わした後に、だッと走っていき、高揚して”よそいき”のカーディガンを付けて寝てしまう場面に繋がるが、映画の中では、タエ子は空にタタッと駆け上がっていく。

映画の該当場面

 本当に些細で、特に中身のない会話の中で、お互い心通じる部分があったと思えた後の、舞い上がる心情。『赤毛のアン』の第一話のリンゴ並木を通るアンの心情描写に連なる、高畑勲のリアリズムが結実した場面だ。
 高畑勲は「アンチファンタジー」を自認していたが、現実で起こりえない映像表現を批判しているわけでも、ファンタジーを文字通り否定しているわけでもない。彼が非難をしているのは、観客がファンタジーの中にとどまってしまう作品の構造だ。(高畑勲が『ドラえもん』のTV再アニメ化に尽くした理由を想起してほしい。
 そもそも、高畑勲の日常作品において、『ハイジ』のブランコ以来、ファンタジックな飛躍がない作品は『柳川掘割物語』程度だろう。(『じゃりン子チエ』の下駄でさえ、スター・デストロイヤーになってしまう。)そうした中でも、日常的な心の機微を、ふっとファンタジックに実感を掴むこの映像演出は抜きんでている。

◆諦念の物語として

 ある時期以降の高畑作品の特徴は諦念だ。『平成狸合戦ぽんぽこ』のラストで人間社会に迎合して生きていく狸の姿、『となりの山田くん』の「人生諦めが肝心」と言う台詞、『かぐや姫の物語』では、不完全な生の絶望の中で、それでも生を肯定せざる得ないことが示唆される。
 この端緒は『おもひでぽろぽろ』にあった。

高畑勲
今度の「おもひでぽろぽろ」でも、何かを断念する、断念せざるをえなかった、ということがいくつも話されるんですね。意識してたわけじゃなかったんですが。主人公の10歳のタエ子は田舎行きをあきらめ子役をあきらめる。山形のナオ子という中学生はプーマの靴をあきらめ、トシオという青年は東京に出たかったけどあきらめた。でもあきらめたり断念したりしたことが、そのまま傷となって残って今に至るというふうにはならないわけです。あることを断念しても、そのかわりに得るというのはあるわけで、断念した経験によって強くなったりもするし、両者の比較はそう単純じゃない。(…)自分の目指していた方向じゃなかったにもかかわらず、そこに何かいいものを見つけることができるみたいな。そのへんにも触れたかったんですね。

「これからの時代を切り開いてゆくヒント」山田太一✖高畑勲

 男女を問わず20代後半は第2思春期の時代と言ってよいだろう。無限の可能性があった時代が終わりを迎えて、自己の限界や、人生の最終コーナーが段々と意識されてくる。仕事であれば転職が容易にできる最後の時期であり、恋愛をすれば結婚をすべきかどうか(あるいは子供を持つかどうか)が脳裏に浮かばざるを得ない。迷いの中で決断を下すものの、その決断に自信は持てず、後悔を抱いていく。そこに、諦念が生まれていく。
 高畑勲は、この時期を「さなぎの季節」と劇中で表現し、27歳のタエ子と小学5年生のタエ子を結びつけた。

青虫はサナギにならなければチョウチョにはなれない。サナギになんかちっともなりたいと思ってないのに。あの頃をしきりに思い出すのは、私にサナギの季節が再びめぐって来たからなのだろうか。 

『おもひでぽろぽろ』27歳のタエ子のナレーション

 高畑勲の諦念とは、不完全な現実・自分自身を受け入れて、それでもその中で生きていくことを決意することに他ならない。 
 終盤、タエ子が自身の田舎好きの軽薄さを自覚したときに「あべくん」のエピソードが思い出される。それは、自身の優等生的な態度の背後にある、認めたくなかった偽善性を直視する過程だ。偽善性に居直るわけでも、否定するわけでもなく、それを認めたうえで他者との関係に一歩踏み出していけるように、トシオとの会話の中でタエ子は心を整理していく。
 その後、ふと蝶々が現れるのは、サナギの季節が終わりを告げていく象徴だ。

 『かぐや姫の物語』では「ここではないどこか」に囚われるあまり、十分に生きることができなかった人々の哀しさが描かれていたが、その後、あらためて『おもひでぽろぽろ』を見直すと、「ここではないどこか」を求めていたタエ子が現実と自分自身を受け入れて、一歩を踏み出していく過程と見える。エンディングのタエ子にとって、山形の田舎も小学5年生の思い出も、もはや「ここではないどこか」ではないのだ。
 無論、その一歩先が明るいかどうかについては、ラストカットのタエ子の表情のとおり、高畑勲は何ら保証をしていない。

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