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ドキュメンタリー「正義の行方」

1992年に福岡県飯塚市で起きた女児2人の殺害事件(飯塚事件)を扱ったドキュメンタリー映画をみてきました。
この作品には被害者やその遺族は全く出てきません。

DNA鑑定などによって「犯人とされた」久間という男性は最高裁で死刑が確定し、2年後に刑は執行されました。2年というのは異例の早さだそうです。

警察官、弁護士、新聞記者がそれぞれの立場から当時のことを振り返って語るインタビューが中心でした。
2時間28分というやや長編のドキュメンタリーでしたが見終わった後もう一度内容を確認したく、同じ内容の書籍をすぐ近くの書店で買い求めました。

映画・書籍のタイトルは「正義の行方」です。事前知識なく時間の都合で選んだ作品だったので、タイトルから「社会の不正をただす社会正義を追う」作品と思い、正義にいささか惹かれぎみの私は長編にもかかわらず、使命感みたいなものに動かされて見てしまったのです。

書籍のプロローグは正義。
エピローグは正義の行方

エピローグで作者は読者に向けて問います。
あなたは誰の真実と正義に傾いただろうか。それとも映画「羅生門」のように藪の中に迷い込んでしまったか。

警察官は「被害者の恨みを晴らすことが刑事の正義」という。弁護士にとっての正義とは、確実な証拠によって事実を裏付けること(だと感じた)。新聞記者の正義は実のところわからなかった。事件報道をリードした地元新聞としての当時の検証から見えてくるのは、ジャーナリズムの正義(事実を知らせる)を貫くことは難しいということである。

この作品からは排除されているが、私がもしも被害女児の親なら、警察官の正義にもっとも傾き共感したに違いない。もしも証拠不十分で犯人が無罪にでもなれば、それこそこの世に正義はあるのかと、神をも呪いたくなるだろう。

事件当事者がそれぞれの正義を口にするなかで、支援弁護士のひとり徳田靖之だけは、「正義があまり好きではない。立場によって価値観が変わる正義については語りたくない」と話したそうだ。

徳田弁護士の言葉は正義の本質を一面的、部分的であれ表していると思った。

私が元死刑囚の妻であったなら、彼女が言った「警察の中にまだ正義はあると思っている」という言葉に傾く。すがりたい。彼女の言う警察の正義とは、市民を守り、無辜の人を悪から守る、それが警察ではないかという、それが期待できないなら警察の存在意義が失われるのではないかというほどの一縷の望みではないのか。

被害者の母親の立場で死刑囚の妻がすがる正義を思うことができるか。夫の無実を信じる妻の立場で被害女児やその親のすがる正義を思うことができるのか。

自らのスクープ報道に苦しみ続けた一人の記者は「ジャーナリストとして学んだのはいろんな正義を相対化すること」と言い、別の記者は「刑事の正義と弁護士の正義は噛み合わないが、それぞれが正義として正しいと思う」と言う。

この作品のタイトルが正義の行方である理由が書籍でようやくわかった。

私もかつてある審査請求の際に「正義に反する」という言葉を使って行政処分を糾弾したことがあるが、私の正義とはなんだったのか、今となっては自分が使った「正義」の意味もあやふやである。

「正義」というのはある種の人たちを引き付ける。正義は人を酔わせる。酒に溺れるように正義に溺れることもある。徳田弁護士の言う正義観が妥当なところかもしれない。


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