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I Love "You" に含まれるもの

最近、映画館で奇妙な映画を観ました。
ブランドン・クローネンバーグ監督の『アンチヴァイラル』(2012)という作品です。


あらすじ
舞台は、細菌の研究が発達した近未来。セレブのウイルスを熱狂的なファンに注射するというマニアックなビジネスが流行り、そのクリニックに勤務しているシドという青年のストーリー。彼は、日々営業マンとして働きながら、希少価値の高いウイルスを闇マーケットに横流しするという違法行為に手を染めつつ、生活していた。そんなある日、究極的な美貌を誇るセレブリティ、ハンナが原因不明の重病に冒される。ハンナから採取したウイルスを自らに注射していたシドも幻覚症状に襲われるようになり、やがてウイルスをめぐる巨大な陰謀に巻き込まれていく。

この作品では、芸能人や世間を騒がせるセレブの熱狂的なファンが
「推し」の体内で増幅されたウイルスを自分の体内に注入する描写が多数あります。
ストーリーとしては、そのクリニックのビジネスの是非を受け手に問うわけでもありません。
愛してやまないタレントのウイルスから、疑似的に症状をうつしてもらったかのような状況を楽しむ人々を皮肉的に描くわけでもありません。
(そういった世間を相手に、お金に目がくらんだ主人公やその周囲の人々の行く先というのがどちらかというと主題として描かれている。)
ただ、淡々と進んでいくのですが…

そんな不可思議な設定から、私の中でぼんやりと疑問が浮かんだのです。

「あなたを愛しています。」と私が言うとき、その“あなた”とはいったい何を指していて、いったい何を含んでいるの?

例えば、誰かが「この喫茶店が好きなんです。」と言うとき、
その人が実際に好きだと感じているのは、そのお店の出すコーヒーの味、マスターの人柄、味わい深い店内や外装、
それだけではなく、駅から近いならアクセスの良さ、喫茶店の名前なのかもしれないわけで、
「喫茶店」とはいいつつも、それを構成するのは様々な要素だと考えられますよね。
その対象が人の場合、仮に好きなバンドの話だったとしても、
「このバンドは2作目までのアルバムが好き。それ以降は好きじゃない。」
「メロディーが好き。歌詞は正直そこまで響かない。」
「曲は毎日聴くくらいに好きなんだけど、バンドTシャツやグッズは興味ない。」と“好き”を分解していくことができてしまいます。
「私はこのバンドが好き。」と言いつつも、そこを深掘っていけば
次第に何をそのバンドの要素と判断して、好きだと感じていたのかわかっていく。

そういった視点を踏まえると作中の、セレブが病気等を発症した際のウィルスを体内に注入するファンたちは、
「好きな人の体内で増殖した細菌ですら、その人の一部だから、手に入れたい。」と考えていたと言えますよね。
彼らにとって、好きな芸能人=見た目、声、体つきだけなんかに留まらず、
その細胞1つ1つが愛でる対象だったのか...

確かに、色紙に書いてもらったサインなんかよりは
ずっとずっとその人本人に近いものではあるけど、
好きな人が鼻をかんだあとのティッシュに愛着が湧くかと言われると、なんとも微妙じゃないですか?

では、私は一体「あなたを愛しているんだ」と感じるとき、
その“あなた”という言葉にはいったい何が含まれて、何が含まれないんでしょうか?

そんなことを考えてしまうのです。

そりゃあもちろん“あなたのすべて”ですよ、と一丁前に答えたいところですが、
他人のことを1から100まで知ることはできないわけだし、
何なら血液型とか高校のときの部活とか、その程度の事でも全く知らないことなんてよくあります。
そうなってくると、私が“あなた”として知覚しているのは一体何なんですかね? 不安になります。

あなたのこんな性格が好きで……あなたのこんな感性が好きで…………あなたのこんな口癖が好きで………………

こんなことを『アンチヴァイラル』の作品に出てくる熱狂的なファンたちが聞いたら、
「そんなもの不確かすぎる。細胞はその人の遺伝子という決定的な情報が作用する!ウイルスこそ決定的に“あなた”なのである!」
と、論破されそうな、そんな予感もするような、しないような。

亡くなってしまった人を完全に培養で再現して、同じ塩基配列にして、
そして、脳にこれまでの記憶を情報としてインプットさせたとしても、
全く同じその人だ、ときっと私たちは認識できないし、
言語化できないわびしさがきっと付きまとうはず。
そんな感性でしか生きられないうちは、
私はあなたの何を愛しているのかなんて一生分からないのかもしれないですね。



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