見出し画像

足裏を揉み続けてみた

7月のはじめにこの本に出合ってから、毎日毎日足裏を揉み続けている。

ちょうどこの本を読んだのがこのときの行きの飛行機の中。
面白くて2時間で一気に読み、ついでに飛行機が空いてることをいいことに足裏を揉み始めたのが最初。(実はそんな自分を想定して足揉み棒まで機内に持ち込む周到ぶり)

そこから毎日、足裏から膝上までを揉み続けて3カ月以上経った。

その結果、外反母趾がましになり、かかとのカサカサがなくなり、マネキンのように黄色かった足裏に人肌色が戻ってきて、かかとが小さくなり、足と足指がシュッと細く長くなり、ふくらはぎの浮腫みが取れてほっそりし、足裏全体が柔らかくなったから子どもと足裏同志を合わせても遜色なくなった。(実は最後のが一番うれしい、子どもの足裏の柔らかさがいつもジェラシーだったから。)あとは、ヨガをするときにときどき襲われた右膝の痛みもすっかり消えた。あとは、想像以上に冷えていることにも気づいた。冷えはまだまだ要改善、でも気付かないと変わらないから、これは大きな一歩だと感じています。

毎日足裏と向き合ってきたので、足と、それに伴う体全体の改善が見られたのは当たり前だと思っていて、わたしがこの足裏を揉み続けて気付いた大事なことがもうひとつ。

足裏が柔らかくなって感度が高まったことで
「地に足がつく」とはこういうことか、と思えたこと。

「地に足がついたひと」と言われてイメージする人物像って
安定感があり自分軸の整ったひと。
逆に、「浮き足立った」と言われてイメージするのは、
不安定で自分の在り様が見えていないさまではないだろうか。

実際に自分の足裏感覚で、その下に存在する地を感じられるようなると
自然と自分のいまの居場所を認識するし、その上でどうするか、どうしたいか、という今後の進路の基本みたいな部分が考えられるようになるんだな、ということを感じてる。

「いかり肩」「首が回らない」のように、体の部位を使った諺や言い回しは、まさにその時々の体の様子と、そのひとの周りで起こっている現実を言い当てているんだと、体のメンテナンスをお願いしているセラピストの方に教えてもらったことがある。
ちなみにそれを教えてもらったときのわたしは、見えない敵に怯えて現実社会と関わらないように引き籠った気分のときで、「ケツの穴が小さいんだよ、要は」と、お尻を必定以上に締めた体を見て言われ、殴られたように目が覚めたのだけど。


「地に足がつく」のは、足裏で地面を感じられてこそ叶うこと。
足裏が固いままじゃ、感度は低くて感じきれない。柔らかくなってはじめて、自分の足裏がどこを踏んでいるのかに気付けるのです。

地に足をつけ、自分の居場所が見えるから、次はどこに行こうか目的地を決められるし、いまの自分に本当に必要なものが分かってくる。


来週から数年ぶりにグループレッスンを再開することにしましたが、このレッスンでもまず最初は徹底して足裏を柔らかくしていこうと考えています。

地に足をつけ、そうして初めて、自分の体と心をどこに向けて進化させていこうか。いかに自分らしく生きていこうか。

そんな大事なことを、自身に問えるクラスにしたいと思っています。
わたしが求めているヨガのクラスは、そういうこと。
ちょっと暑苦しいけど、とどのつまりそこを問い続けていくのがわたしの役割だと思っています。


地に足をつけて、自分の人生を歩んでいく。
そんな女性が増えることを願ってやみません。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?