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人為の力を信じすぎた近代人

最近テレビを買ってNHK、Eテレ、BS1を無限ループしているのだが、今安彦 良和の特集の再放送を目に入れている。
一般的にはガンダムの原作者として有名だが、私は別のルートでこの方にリスペクトを抱いた。漫画『虹色のトロツキー』、日本が満州で実現しようとした五族共和とはなんだったのかを描いた作品だ。特集の字幕にもあるように、分かり合えない「他者」とのドラマを描き続けるのが、彼の作品の特徴である。トロツキーの主人公は満州国に帰属が決まったモンゴル民族だった。主人公は共感できるモンゴル民族のために生きるかとおもいきや、分かり合えるはずのなかった日本軍の中の多様性と触れ合う内に、葛藤していく。しかし、彼は葛藤に埋もれず進み続けていった。彼の決断は苛烈なものも多い、しかしそこに善悪もない。分かり合えない他者との語り合い、戦い、そして主人公は生きるために行動し続けることに意味があるのだと。その先には分かり合えない他者への赦しが待っている場合もある。赦すからこそ、分かり合えなかった他者の側に立つ時もある。今思えば、キリスト教の世界観を強く受け継いでいる。
私は去年読んだ漫画の中で、感情が強く揺さぶられてた。

さて、話の主はここにない。私は生徒に戦争、今起きているパレスチナの当事者について考えさせる課題を出した。自分の意見を持ってもらうために。
ふと思い出した、私が感銘した安彦良和のメッセージは近代の理想なのではないのだろうかと。そもそも新聞記事を読み「解決不能」と結論づけ、自分の意見を持つことに意味があるのかと今の生徒たちは呆れてしまうのではないかと。
これは世界中でデモを起こしている人が聞いたら怒るだろう。だが私は国語科の先生と話した日本における近代と現代の話を思い出したのだ。
日本文学における境目は三島由紀夫の死。
文学における近代は人為の力を信じた時代、現代は人為の力以上の環境の力を信じるようになった時代なのだと語って下さった。
その理論だと安彦良和は最後の近代の産物と言えてしまう。大学生時代は学生運動全盛期、共に活動していた人間は連合赤軍に入ったという生粋の方だ。戦争を当事者ではない他者がどうにか収めようと動いた時代だ。
だが今はどうか。のちの時代から見れば、コロナのせいだった、寒冷化が始まったなど環境の影響が強く語られるかもしれない。加えてパレスチナ問題は根が深く、他者による人為の力は微力にもならないのだろうか。日本人の古来から思想、自然をコントロールできないと考える思想とマッチし、学生運動があの時死んだ今、人為の力を信じないのが当たり前になっているかもしれない。
それでも、手塚治虫も安彦良和もばあちゃんも訴える「戦争はダメだ」というメッセージを受け取った私には、人為から戦争を止めることができることを信じたい。
環境の力を信じる者には響かないのだろう。
では、戦争を止めることに失敗したならば、いずれかは許し合うというのはどうだろうか。いずれ憎しみの連鎖を止めなければいけない。憎しみを一度飲み込むのは一人一人の心がけから、人為の力が平和にみちびくときだってある。

ニュースでイスラエルの人が言っていた。
「互いに憎しみ合っていた米日が友好国になった。その方法を日本から学びたい」と。
日本人はコロっと思想を変えたのは、環境の大いなる力を信じていたからこそ、日本人は新しい思想環境に柔軟に合わせた。また他者もまた、環境に左右された人間たちの集団だから仕方ないと簡単に赦すことができたのかもしれない。
生徒に出した課題が上手くいかない気がするという心配から来て書いたものの、結局自分の意見を導き出しただけだった。

他者を赦す。
まったく、キリスト教徒ではないがキリスト教の学校での生育環境とは、全く大いなるものだ。

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