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ヒンズー教と仏教の原風景Ⅴ

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転生とは、肉体が生物学的な死を迎えた後には、非物質的な中核部については違った形態や肉体を得て新しい人生を送るという、宗教的な概念です。生まれ変わりとも呼ばれます。インドの宗教、ジャイナ教、仏教、シーク教、ヒンドゥー教の中核教義です。

日本の仏教用語では『輪廻転生』という言葉が知られています。しかし、輪廻と転生は一つの言葉でくくられるものではありません。

輪廻は、生まれ変わりを流転として捉えられます。生物は永遠にその存在のカルマ(業)の応報によって、車輪がぐるぐると回転し続けるように繰り返し生まれ変わるという考え方です。ヒンドゥー教や仏教、ジャイナ教にある宗教観で、流転として転生を繰り返すことを『苦』と捉えます。生きていることそのものが苦痛なのです。そして、人間も必ずしも来世に転生(生れ変り)した時に同じ人間に生まれ変わるとは限りません。植物のときもあり、動物のときもあります。

転生は、原初的なアニミズムの宗教観です。部族や親族などの同族内で転生(生れ変り)します。そこには哲学的な悲哀はありません。

ヨーロッパでは、リインカーネーションという概念があります。比較的新しい。19世紀頃のフランスで生まれた考え方です。歴史は未来に渡って進歩発展するという歴史の進歩史観に基づくものです。転生を繰り返して、まるで累積されていくように進化してどんどん神に近づく、という考え方です。同時期にイギリスのダーウィンが唱えた進化論と相まって、ポジティブに生れ変りを捉える考え方です。

この進歩史観の考え方、変遷は、市井三郎先生の『歴史の進歩とは何か』に詳しく語られています。

ヒンドゥー教と仏教の輪廻転生の違いは、輪廻における主体となる永続的な根源(我、魂、我、霊など)があって転生するのか、なくて転生するのかです。仏教では霊や魂などが転生することはない、存在しない(無我)であるとしています。ある肉体から肉体に輪廻するのは、霊でも魂でも自己でもなく、『五蘊』という執着と無知によって形成された心理現象の複合が転生するのであって、個人的な意識は死によって消滅するとしています。

意外ですよね?

しかし、よくわからないのは、仏陀は前世の記憶を持ち、自身の前世について語ったと伝えられていること。「個人的な意識は死によって消滅」のに前世の記憶は転生によって残る?矛盾しているような。しかし、宗教の詳細を語るお話ではないので、この疑問は私は説明しませんし、できません。

仏教では前世の記憶を想起する能力を「宿命通」と呼んでいます。悟りを得るために習得すべき重要な方法とされています。

チベット仏教はさらに違っていて、生には起源がなく、限りない過去から転生を繰り返し、カルマ(業)と煩悩を断滅することで来世を受ける苦しみの生から解放されるとしています。釈迦やヒンズー教の考えでは、輪廻からの解脱が究極の目的ですが、チベット仏教では、カルマ(業)と煩悩を善行によって減らせれば、来世は良くなる、という考えからです。輪廻からの解脱はないのでしょうか?

輪廻からの解脱をしてしまっては、チベット仏教の最高位、ダライ・ラマも無意味になります。だって、ダライ・ラマの上に輪廻からの解脱をした仏陀という存在があっては邪魔ですから。そのダライ・ラマは輪廻転生して、死したあと、次代の生れ変りを探して、次のダライ・ラマとします。

チベット仏教で認定される転生者(ダライ・ラマの他にも何とかラマとか複数いますよね?パンチェン・ラマとか)には、先代の心と記憶が同じ転生者もあれば、心と記憶が同じではない転生者もいるそうです。再臨者と呼ばれ、先代のラマの心と記憶だけではなく、他の存在の心と記憶が同時に降臨することもあるとされるています。

日本では・・・困りますねえ?輪廻転生されると『先祖代々の墓』を祀って、お盆にご先祖様がお帰りになられることができなくなります。だって、ご先祖様、輪廻転生されちゃっているんですから。

神道では、死体は祟り神ですから、葬式は夜間行います。中国の鬼の思想がはいってます。本来の仏教では、死体は有機物の布袋に等しい。輪廻転生してしまっているので、死体に意味はありません。先祖代々も無意味です。ランダムな転生なんですから、先祖から今の代までの縁もありません。偶然の産物です。小乗仏教やヒンズー教では火葬して灰は川に流してしまいます。現代は川に流すと汚染問題がありますので、火葬場で適当に灰はゴミとして処分されます。

しかし、それでは仏教はサステナブルな(再生可能な)ビジネスになりえない、ということで、ご先祖様、祖霊集団という概念をでっち上げました。でも、輪廻転生と折り合いがつかない、というので、祖霊集団はあの世でプールされて、サーバーに保存(過去帳)、祖霊集団から輪廻転生が起こるので、祖霊集団は存続でき、輪廻転生も否定しなくても良い、というウルトラC級の考え方を採用しました。これで、生きている時から、死んだ後も、仏教寺院のサステナブルな(再生可能な)ビジネスが確立しました。

さて、この輪廻転生という考えは、どこから始まって広まったのか?インドが起源なのか?

そこで、出てくるのが、『アーリア人のインド侵入』というお話。

そして、転生(生れ変り)って、実は『A piece of rum raisin』の記憶転移じゃないの?というお話。

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