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れいん忘却

目が醒めると、天井が四角くくりぬかれていました。
ぼくは紙屑のカーペットにうもれていました。
一晩中ふり続いた雨は黎明の空にいきおいよく
吸い込まれて、やがて一粒の、
巨きな雨露になりました。
その異形に、部屋の片隅のリクガメは、
ひどく怯えきって顔を出さなくなりました。

プリズムにかがやく雨露は
いつしか七色の橋をかけて、
ぼくはあおむけのまま腕をのばしました。

しんと霧散して、空は灰色、にがい静寂。

腕にはりついた紙片がはがれて、
ぼくの鼻先に舞い落ちました。
そこにはたった二文字の、

誰だっけ。

ぼくの胸にいとしさの重石がのせられて、
もう二度と動けなくなり、
数億年ぶりに甲羅から顔を出した
名前のないリクガメは、
そんなぼくを不思議そうに見ていました。
そしてこう言いました。
「餌をくれ!」

ふたたび雨は降りだして、
地平ではごうごうと劫火が燃え盛っています。
臆病者でちっともぼくになつかないリクガメは
お腹をすかせて黒目をかがやかせています。

身動きできないくせに、ぼくはまだ
生きていたいと願っているようです。
いとしい二文字をつけて生まれてきた
あなたを思い出すことが、
ぼくの生きるしるべなのです。

たとえあなたを思い出したとたんに
ぼくもあの虹のようにかき消えてしまうとしても、
それはそれで、まあ、悪くない生だったと思います。

せめて、
あなたと一緒に迎えた
名前のない彼を
引き取って
やさしい名前を
つけてあげて
ください。

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