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凶眼の拳 -少年、獄底にて世界を殺伐す- #1

 窓から見える五月の空は、緑色だった。
 雲は、黒かった。
 四方の壁は臓物のように赤黒く、隅に畳まれた布団類は原色の圧迫で僕の脳を蝕んだ。
 そのうえ、すべての物体の質感が、ぬめりを帯びているように見えた。見る角度の微妙な変化によって、常に蠢いている。
 まるで眼から脳へ毒が流れ込んでくるかのような、吐き気をもよおす眺めだ。
 異世界や異星の光景ではない。広島の刑務所の一室であり、狭苦しいが普通の部屋だ。
 だけど、僕にとっては普通じゃない。
 目から入ってきた光が、頭の中で変な風に歪められるのだ。基本的には、赤色が青色に、青色が緑色に、緑色が赤色に変化するのだが――どうもそれだけではないようだ。
 そんな異常な視覚を通して見る風景は、一目で嫌になるほど狂っている。
 だがそれも、たまに廊下を通る刑務官の顔色に比べれば何ほどのこともない。
 あれは一体何色だ。
 せわしなく変化しているかと思えば、別々の色が同時に顕れているようにも見える。ありえない表現を使ったが、ありえない色なのだ。
 多分、人間が見てはいけない色だ。
 これほど、恐怖を呼び覚ます色はない。
 浮かべる表情のすべてを、邪悪で醜い形に歪める、最悪の色だった。彼らが独房の前を通りかかるだけで、僕は必死に眼をそむけ、吐き気を堪えなければならなかった。
 近づきたくない。あの顔が僕の方を見ることを考えただけで、体が震え上がる。
 汗が冷たい。
 やつらの浮かべる笑みは、まるで僕を惨たらしく殺すさまを想像して悦に浸っているかのようだ。
 舐めていた。
 まさか、これほどおぞましい刑だったとは。
 進みすぎた脳生理学の、忌むべき結晶。
 脳の中でも、色を感じる部分――「視覚野」。そこをいじり、色の認識をおかしくさせる刑罰が正式に施行されるようになったのは、つい数年前のこと。
 死刑廃止の動きがついに実を結び、受刑者を一切傷つけず、二度と犯罪など起こす気になれないようにさせる、画期的な刑罰。
 おかげさまで、僕は死刑にならずに済んだ。
 ありがたくって涙が出る。
 刑期は、十年。
 その間は、一般の囚人と同じ待遇だ。対外的には、禁固刑と何も変わらない扱いだった。
 最初、僕は呆れた。何て手ぬるい刑罰だと思った。
 手術をほどこされてすぐ、その考えがいかに甘かったかを思い知った。
 十年後、狂わずにいられる自信はなかった。
 クソが。

 ●

 いや、実際のところ。
 当然の報いと言えばそうなのかもしれない。
 十二人も殺しておいて、許してくださいなんて口が裂けても言えない。僕一人の命で贖いきれる程度の罪じゃなかったということなのだろう。
 言い訳は、すまい。

 ●

 眼が覚めた瞬間、目に入ってくるのは、臓物の質感を宿す天井だった。
 ――あぁ、また、悪夢が始まる。
 一旦目を閉じる。
 深呼吸。
 身を起こし、冷たい床に足をつけた。
 意を決して、両目をこじあける。
 所帯じみた、独房の一室。
 広さは四畳一間程度。
 僕以外の人間には、灰白色の部屋に見えることだろう。
 コンクリートの壁と、畳の床。すねまでの高さしかない机。くずかご。畳まれた布団類。洗面台。台の上に置かれているテレビ。部屋の一番奥には洋式トイレがある。
 それらは異形の色彩に侵されており、眼を閉じていなければとても耐えられそうにない。
 テレビなど、近づくのも恐ろしい精神破壊装置だ。僕がそんなものを見ないことはわかりきっているのに、なぜか置いてある。嫌がらせかと思う。
 一応、本も借りられるらしいが、極力多彩な色を見たくない。
 ため息。
 僕は、これからどうすればいいのだろう。
 こんな状態で、十年もどうやって生きていけと言うのか。
 二日前にここに移送されてから、それをずっと考えてきた。
 何気なく目に入ってくる光景にも慣れることができないというのに、他人と接するなど絶対に無理だ。独房暮らしとはいえ、風呂や全体点呼の時には他人と顔を合わせなければならない。が、今の僕がそんな状況に放り出されたら、間違いなく発狂する。
 目隠しをし、眼の見えない人間を装って生きていく……そんな程度の考えしか浮かばない。
 しかし、そうなればさまざまな不都合が降りかかってくるのだろう。
 たったひとりで、それを克服できるのか。
 ……どう考えても、絶望的な結末以外想像できない。

「海坂涼二さん、面会です」

 金網越しに、そんな声が、した。
 僕は肺腑がきゅっと縮こまるのを感じた。
 面会、だと? 何をバカな。
 会えるわけがないだろう。
「……誰だか知らないけど、帰ってもらってください」
 絶対に声のほうを見ないようにしながら、僕は答えた。
「たるんでんじゃねえ!」
 いきなり怒鳴られた。
「こっちを向け! 姿勢を正せ! 何だその態度は!」
 ……これだよ。丁寧なのはうわべだけ。
 犯罪者どもを矯正する施設の職員としては間違った態度じゃないけど、特殊な状態にある囚人に対してはもう少し融通を効かせてくれてもいいじゃないかと思う。
「何をしている、早くこっちを向け!」
 背後で、鍵が外され、扉が開かれる音がした。
 心臓が早鐘のように鼓動する。
 ちょっと待て。まさかあんた、入ってこようとしているのか?
「貴様! 懲罰房行きだぞ!」
 何を言っているんだ、あんたは。どうして僕の視界の中に入ってこようとするんだ。どうしてそっとしておいてくれないんだ。そこまで僕に嫌がらせをしたいのか。どこまでウザいんだ。
 ぐいと乱暴に肩が引かれる。寸前で悲鳴を呑み下す。見てはならない。
 これは、つまり、どういうことだ?
 彼は僕の状態を知らないのか? そんなわけがない。
 では答えは一つだ。この蛆虫野郎は僕の状態を知った上でわざと視界に入ろうとしているのだ。
 悪意か? 好奇心か? どちらにせよ、僕は今暴力を受けようとしている。一目見ただけで脳が握りつぶされるような錯覚を味わわされる、狂気の体験。それを、この男は僕に強いようとしている。
 僕は、拳を、握り締めた。やるしかない。そう思った。脳内でこれから成すべきことをシミュレートする。
 ――そうだ、排除するしかない。
 振り向いた瞬間殴り飛ばし、すぐまた後ろを向く。そう決めた。それしかない。だってそうしなければ僕はパニックに陥って何をしでかすかわからない。それしかない。わからない。パニックに陥って何をしでかすかわからない。だから、その原因となるものは全力で排除する。やってやる。やってやる。わからない。パニックに陥って何をしでかすかわからない。
 咆哮。
 膝を立て、身体を旋回させる。醜怪な色彩の表皮を持つ怪物がいた。しかも、二体。
 一目見ただけで吐き気を催すような、邪悪な表情に彩られた顔。
「うるせえんだよ……!」
 手近な一体に拳を打ち込む。顎の骨を砕いた感触。衝撃が相手の身体を突き抜け、どこまでも伸びてゆく感触。なつかしい、感触。
 怪物は仰向けに宙を舞い、倒れ伏した。
「てめえもだ!」
 畳を蹴り、もう一体に肉薄する。拳を相手にブチ込むというただ一つの目的のために、全身を駆動する。
 速度と、体重と、筋力の乗った拳が、
 ――受け止められた感触。
 何かが破裂するような音とともに。
 見ると、生理的嫌悪感を煽る長細い器官が複数、僕の拳をがっちりと咥え込んでいた。悲鳴を上げて拳を引こうとするが、よほど強い力で咥え込まれているのか、びくともしない。
「海坂涼二。十六歳。暴力団『紅鎬会』の元舎弟。上位組織『浅川組』からの独立抗争において十二人を殺害、三十六人に重傷を負わせる。その後、仲間の裏切りによって逮捕され、現在は死刑に代わる新刑罰『異視刑』を受刑中――こんなところで合っていますかね?」
「あんた……何者だ」
 唸るようにつぶやく。顔は正視に堪えないので、目を逸らす。
「いえね、ちょっと」
 鳩尾に衝撃。
「かッ!?」思わずうずくまる。
「私にお付き合いいただこうと思いまして」
 今度は、尖った肘が後頭部にめりこんできた。
「……ッッ」
 その衝撃は、僕の意識を粉々に粉砕した。

 ●

 ――物心ついた頃から、何故か人間という生き物が嫌いだった。
 いや……嫌い、というほど積極的な感情じゃない。ただただ気色悪かったのだ。
 路上の猫の死体を気色悪いと思うように。レタスに紛れ込んだ芋虫を気色悪いと思うように。排水溝に溜まった髪の毛を気色悪いと思うように。
 僕は、人間が、気色悪かった。
 他人と接しても、不快感しか抱けなかった。
 出来れば近づいて欲しくなかったし、声もなるべく聞きたくなかった。憎いわけじゃない。僕に関わってこないのであれば、この世のどこかに生きていてもらっても一向に構わない。
 にも関わらず、何故か彼らは僕に関わってくる。

「りょうくんりょうくん、あそぼあそぼ?」
「なんで?」

「海坂~! 今度みんなで映画見に行かない?」
「どうして?」

「あ、あのね! 海坂くん……私、あなたのことが……」
「何故?」

 どういうつもりで寄ってくるんだ君たちは? 本気でやめてくれ。そんなに僕を嫌がらせて楽しいのか? 君たちの考えていることがわからない。近寄らないでくれ。本当に気持ち悪いんだ。
 どれだけ懇願しても、彼らは近寄ってきた。
 どちらが異常なのかと言うならば、それは間違いなく僕のほうだ。僕以外のすべての人間は、程度の差こそあれ、それなりに自分以外の人間と折り合って生きていけている。
 ならば――
 欠陥品なのは自分であり。
 異常者なのは自分であり。
 譲歩すべきは自分である。
 中学生になったあたりで言われたことなのだが、どうも僕の顔は他人にとってひどく魅力的に映るらしい。完璧な美貌だ、と誰かが言っていた。神に愛された子供だ、と。人類はお前という美を生み出すために存在していたのだ、と。
 ――タワゴトだ。
 どれだけ鏡を眺めても普通の顔にしか見えなかった。過剰なところも欠けたところもまるでなく、恐ろしいまでに平凡かつ中庸な造形。醜くはないが、人の印象に残らない顔のように思えた。
 まぁいい。これが原因で他人を引き寄せてしまうというのなら是非もない。
 この顔を壊そう。その程度の負担は負うべきだ。なにしろ異常なのは僕のほうなんだから。
 そう思い、ぶっといナイフを買った。
 ……さすがに覚悟が必要だったが、おおむね満足のいく傷痕をつけることができた。僕の人生の中で、唯一完璧にうまくいった事柄ではなかっただろうか。
 額の左側から、唇の右端まで走る、巨大なムカデが這うかのような傷痕。レントゲンで見れば骨まで達するその勲章は、今日に至るまで僕の顔を醜く護りつづけてくれている。
 魔除けのごとく。

【続く】

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