#173_【近代化遺産】豊砲台
前回、日清・日露戦争期と太平洋戦争前に建造された砲台に与えられた役割について書きました。
しかし、具体的にどのような変化があったのか、というあたりまでは触れていませんでした。というよりも、それに関しては、各々の砲台を見てもらいながらのほうが分かりやすいかと思い、あえて記述しませんでした。
そこで今回は、対馬の巨砲、豊砲台を紹介しながら、砲台に与えられた役割や環境の変化についても触れていきたいと思います。
何を目的としていたのか
豊砲台は、対馬の中でも朝鮮半島に対しての最前線に位置する上対馬町鰐浦(紛らわしいですが、豊ではありません)に、1934(昭和9)年、起工から約5年の歳月をかけて竣工しました。
豊砲台には、40センチ加農砲塔が1基2門と、高射機関銃が2挺設置されました。また、これと別に、現在は航空自衛隊の分屯基地があります海栗島(※)に海栗島砲台が建造され、45式15センチ加農砲が4門と高射機関銃が2挺設置されます。また、豊には200糎射光機、海栗島には150糎射光機もあったとか。
(※)海栗島へは、航空自衛隊の許可がないと渡れません。
どのような砲台だったのか
豊砲台に転用された大砲はどの艦のものだったのか、「土佐」やら「赤城」やら様々な説がありますが、軍縮条約でどの艦がどのようなかたちで廃止されたのか、名前に挙がっている艦にはどのような兵器が搭載されていたのか、というあたりで疑義が生じるようで、はっきり分かっていません。
とりあえず、設置にあたり意図されていたこととしては、対馬海峡周辺にやってくる潜水艦や航空機に対する防御と、朝鮮半島側の砲台と1セットで対馬海峡を封鎖することがあったのだろうと考えられています。
日清・日露戦争期と太平洋戦争前の違い
砲台の立地
日清・日露戦争期の砲台は、竹敷要港部の防御が意図されていたため、島の中央部に位置する浅茅湾沿岸に集中していました。
それに対し、太平洋戦争前の砲台は、大砲の射程距離が伸びたことにより、敵の艦船(特に潜水艦)への対策と、自国艦船の安全航行確保のため、対馬海峡に面した場所、とりわけ島の端に建造されます。
土木建築
航空機による爆撃への対策として、地下構造物や分厚い鉄筋コンクリートが用いられるようになります。
せっかくですので、姫神山砲台(日清・日露戦争期)と豊砲台の弾薬庫を見比べてみましょう。
姫神山にあるのがおしゃれで、豊砲台のは無骨…(゚∇゚;)☆\(-_-;)。
と言いたかったわけではありません。
砲台が攻撃されますと、単純に攻撃力や防御力を失うことになりますが、砲台には弾薬などの「燃料」がたくさんありますので、運悪く命中しますと被害がさらに拡大します。そのため、半地下にした上に、航空機から判別しにくくなるよう、迷彩塗装を施しているわけです。
空爆対策については、別の砲台でわかりやすい事例が出てきますので、そちらでご紹介します。
現在はどんな場所
豊砲台は、現在も原型に手を加えない感じに保存がなされており、経年劣化はしていますが、当時の面影を割とよく見て取れるようになっています。
地下施設内は、機械類は撤去されていますが、中は電気も通っており、入口でボタンを押すと30分点灯します。
建設当時は、船で運んできた資材などを陸揚げして、砲塔や弾薬庫に運ぶためのトロッコのレールが敷かれていたそうです。
オススメポイント
対馬の人たちは歩かないので誰からも共感が得られませんがf^_^;)、鰐浦集落から韓国展望所にも散策路が整備されています。
ですので、鰐浦~韓国展望所~豊砲台を経て戻ってくるという、軽い山歩きも楽しめます。
ヒトツバタゴの咲く4月下旬頃が、花の香りを楽しみながら歩けますので最高ですが、鰐浦の倉庫群を見下ろしながら歩くだけでも、珍しい景色が楽しめると思いますので、よろしければぜひ散策してください(^^ )。
交通アクセスなど
豊砲台は、通常であれば普通乗用車なら砲台の入口まで、バスなどの大型車はふもとの広場まで入れます。
しかし、広場から砲台に通じている道でがけ崩れが発生したため、当面の間、どの車輌もふもとの広場までしか入れません。そこから砲台までは、 徒歩で10分程度です。復旧時期は未定です(2024年8月4日現在)。
また、韓国展望所の駐車場横から、海沿いの尾根伝いに20分ぐらい歩いて行くと、たどり着きます(看板が出ています)。
車で、厳原から110分、雞知(対馬空港)から90分、比田勝港から15分です。
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