西脇順三郎と左川ちか―二つの永遠性について【研究メモ】
口頭発表@慶應義塾大学アートセンター アムバルワリア祭 XII「西脇順三郎と女性性──左川ちかを思い出しながら」 2023年1月28日のレジュメです。
左川ちかの詩の解釈は後半なので、そちらに興味ある方は、目次「左川ちかと永遠性」からとんでください!
左川ちかの紹介
詩人・翻訳家、1911年生まれ、北海道余市町出身。10代で翻訳家としてデビューし、J・ジョイス、V・ウルフなど、詩・小説・評論の翻訳を残す。モダニズム詩壇の最前衛に立ち、将来を嘱望されたが24歳で亡くなる。国内では幻の詩人として長く神話化されてきた。
(『左川ちか全集』島田龍編、書肆侃侃房 帯より抜粋)
※本書は、2022年12月時点で7,000部突破!戦前の一部でしか知られていなかった女性詩人の作品としては異例のこと。
西脇順三郎と左川ちか・・・年譜上の接点
1931年
新宿の白十字で詩と詩論の会。ちかは西脇順三郎の英文詩集『SPECTRUM』を持参していた。ちかはジェイムズ・ジョイス『室楽』の翻訳を『詩と詩論』に発表開始。
1932年
左川ちか『室楽』を刊行。
1933年
5月7日 瀬沼茂樹最初の評論集『現代文学』出版記念会。
左川ちか、西脇順三郎、伊藤整、千葉亀雄、葛川篤、嘉村磯多、百田宗治、板垣直子、春山行夫。
・同席していたので、直接話していたと考えられる。
西脇順三郎『ヂョイス詩集』を刊行。『室内楽』の翻訳も収める。
1936年
1月、ちか死去。3月 『椎の木』5-3が左川ちか追悼号。萩原朔太郎、堀口大学、春山行夫などと共に、西脇も追悼文「気品ある思考」を寄稿
西脇のちか評価
→「理知的」、透明感、人工的な技法を超えたところの生命や感情などを感じさせることを示唆か。
西脇順三郎と左川ちか・・・詩作上の共通点
翻訳を創作のインスピレーション源にしている部分がある。
・海外作品のイメージを下敷きにしたり、わざと直訳したようなセンテンスを詩作に取り入れるなど。
・西脇順三郎はエリオット『荒地』(1922年)に大きな影響を受けたか。現代の風景に神話や文学の風景を重ね合わせる手法(翻訳1952年刊行)。ジョイス、マラルメ、シェイクスピア、ロレンスなども翻訳。キーツなどの本歌取りもみられる(「宝石を覆したような朝」は「ike an upturn'd gem」に拠るなど)
・左川ちかも、ジョイス、ウルフ、ハクスリー、その他を翻訳。
・シュルレアリスム的な技法。
(日常では遠いもの同士を並べる、一見接続しない断片を組み合わせるなど)
・「室楽」ジェイムズ・ジョイス(Chamber Music)を二人とも訳している
西脇順三郎は、行訳で明るく軽快な調子、左川ちかは、韻律を排し、散文体で硬質な訳。翻訳が発表されたのは、左川の方が先だったため、西脇は左川訳を参照した可能性もある。
例:
「音楽が河に沿うて聞えるのは
愛の神がそこをさまよふから、
彼の外衣の上には淡い花をつけ
彼の頭髪には暗い葉をつけて。」(西脇順三郎)
「川に沿ふて音楽が響く。愛の神がそこをさまよってゐるので。彼のマントの上の青ざめた花。彼の髪の上の暗い木の葉。」(左川ちか)
・ちかの方が、「暗さ」や「影」を強調する傾向はみられる。
・西脇順三郎『SPECTRUM』(1925年刊)
残像、連続体、スペクトルの意味
・「天国」「死の壁」「バルコニー」など、共通した語彙。「ペパーミント味の憂鬱~」の行の、モダンなイメージと言葉の新鮮な組み合わせが生み出す軽やかさは、ちかの詩にもみられる。
→ 左川ちかが、先達である西脇順三郎(1894年生まれ)の詩に影響を受けた可能性もある。ただ、管見の限りでは、直接的・明確に西脇のみから影響を受けたというよりは、西脇が大きな紹介者であり、日本における立役者の一人ともなった、モダニズムの潮流全体に影響を受けたという方が妥当か??
二つの永遠性
・人間やそれぞれの生物の命を超えていくもの
・自然のサイクル、季節のめぐり
・過去と未来への時間の広がり
こうした普遍的なテーマが流れているからこそ、現代になっても両者の作品は多くの人を惹きつけているのかもしれない。
西脇順三郎と永遠性
・詩の根本に永遠性を置いている
・人間の時間を超えていく、季節のめぐり
・女性は永遠側。男性は「風」に過ぎない
・象徴を避ける、絵画的、写実的
↓ 多少変化?
・詩の根本に永遠性を置いている。人間を超えた「永遠や神」と比較した時の、人間のちっぽけさ、それを解決していくことを詩の原点にしていた。
・戦後は、「人間の生も死も」そのままですでに「永遠」の中にあるという見方へと少し転換。その、現在すでにある永遠性というものを詩で表現していたようにみえる。
女性は「永遠側」に置く
→「種を育てる果實」は「女」で永遠性や自然の方に近いというのは、現代の観点からみて指摘するのはフェアではないかもしれないが、問題がなくはない。(男性も子育てに参加する必要・・男女の二項対立、従来の固定観念自体を否定しているわけではない)
ただ、男女の差を強調するのは『旅人かへらず』が一番顕著で、その後はそれほど「女」と自然の関係性を強調してはいないかもしれない。
また、『旅人かへらず』はニーチェの「超人」などマッチョな「男性」原理に反対して書かれた部分もある。当時は斬新な姿勢だった。
・
永劫に続く季節のめぐり、その永遠性が詩
象徴を避ける
「ああ象徴のない世界へ出たい」(禮記)、「シムボルはさびしい」「シムボルのない季節に戻ろう」(えてるにたす)
左川ちかと永遠性
→ 左川ちかが入院する数か月前の作品(翌年没)。消えていく私(個人)と、続いていく自然。今ここに生きている絶対的な個人が滅びていくことの悲しさが、めぐっていく自然の優しさと対比されている。
目の中を流れる「水=涙」は、春先の雪解けの水が流れ込んだようであり、主体は半ば自然と一体化している。
→ 「生命よりながい夢」とは??とてもミステリアスな表現。しかも牢獄の中で閉じ込められているのではなく「守られている」。
西脇の「はてしないねむり」とも接点があるか?西脇の「ねむり」の場合は、もう少し有機的、人間的か。「夢」「ねむり」では現実世界の主体は消えて、夢見る世界そのものになっている。(参照:フーコー『夢と実存』)
私は「殻=仮面?」であり、根本にあるのは死(意味づけられないもの)。
ある生命の持つ特定の世界観では見ることのできない世界の存在。「人間」とは関係ないかもしれないような世界の存在。
・「刺繍の裏のやうな外の世界」は象徴界、現実世界の意味秩序の外を示唆?だとすれば、象徴の世界を脱しようとした西脇とも共通。
→ ちかの詩の中でももっとも暗いイメージが展開される作品の一つ。宇宙的なものを感じさせる。
「小さな音をたてて燃えてゐる冬の下方で海は膨れ上がり 黄金の夢を打ちならし 夥しい独りごとを沈める」では暖炉で薪が燃えている人間の家のあたたかさ。母親が子供たちに炉辺で語っているような光景。それが想像された後「下方で」と指示され「黄金の夢を打ちならし」と激しいエネルギーが提示されることで、大地の下へと画面はスライドして、人間の世界の下にある、地球のプレートテクトニクスにあるマグマのようなものが想起される・・・。宇宙の見る夢のような?
「貶められ 歪められた風が遠くで雪をかはかす」「裏切られた言葉のみがはてしなく安逸をむさぼり/最後の見知らぬ時刻を待つてゐる」からは、人間の絶望の中でも、あるいは人間が消滅してしまった後でも続いていく残余、あるいは何か大きなもの(永遠性?)の気配を感じさせる。
世界の均衡
→光と闇の対比:どこかで何かが失われると同時に、世界のどこかでは新しく何かが現れる。そのようにして無限に続いていく何か、個別の生命を超えたものを感じさせる。
→死んだはずものが現実に何らかの形で存在をしつづける。「反響」(残余?)がこの世に残り続けるという意味での永遠性。生と死の境目を超えていく。
西脇と左川の相違点
・西脇順三郎は、絵画的、俯瞰的。個の立場からではなく、生々流転を外から眺めている。
・インターテクスチュアリティ(文学、神話を参照)していて、言及される地理(ヨーロッパが多い)など水平方向に広い。
・今現在を、過去の歴史や文学に重ねあわせて、時間のレイヤーを多層化する。それにより、現在はそのまま過去となりノスタルジーを帯びる。「懐かしい現在」そして、その延長である「懐かしい未来」が永遠に繰り返されるような世界観か。現在をそのままに永遠としてしまう。
・左川ちかの作品では、作中主体が、人間を超えて続いていく永遠性の世界に圧倒されつつも、あくまで滅びてゆく個の立場から言葉を放つ。絶対的な個が滅んでいく悲しみが前に出ている。象徴的な垂直性がある。個人の絶対感を持つ近代的自我といえる?
宇宙の闇を感じさせるような広がりがある。それが生死の境目を超えていく気配。
コメント(問題提起)
・西脇は永劫を「女」としたことで、ある意味で個人の滅びと直面することは避けられた部分も?(西脇が諧謔を大切にしていたことや、個人の体質も関係していると思われ、言いがかりかもしれませんが・・・左川ちかは夭折し、幼いころから病弱だったため個人の生命の限界を突き付けられざるをえなかったかもしれない。)
・西脇は、アンドレ・ブルトンのシュルレアリスムのような、一つの欲望の対象を志向していく書き方はしなかった。精神分析的な意味では、男根・ファロスという一つの欲望の対象に収れんすることを避けたと言える。
そうした意味では「女性的」なエクリチュールであったとも言えるかもしれない。ただ、筆者としては、そうしたエクリチュールを「女性的」と表現してしまうことは「女性性」の本質化につながるのではないかという点を懸念もする。
・日本的空虚につながる心配は?(金子光晴「寂しさの歌」は、個人が全体に埋没した日本の寂しさを表現しているが『旅人かへらず』とスタイルは似ている)
ただ、西脇のスタイルは和洋折衷で日本的とは言えないと反論可能。西脇は、エリオットなどから強い影響も受けており、「東洋的虚無感」とはまた違ったアプローチである。
象徴的なものを、一神教的ではなく、多神教的にきらきらと砕いてばらまいたという側面もあるか。西脇は、多神教的なギリシャと、多神教・アニミズム風土の日本を重ね合わせることの必然性もあったような、独自世界を切り開いていた。
・「象徴」は「個人の自我の絶対感」ともつながっている可能性がある。例えば横光利一も、「日本には象徴がなかった」と述べていた、
・近代日本で「個」とは何か、という問題系にもつながるかもしれない。
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『「人間ではないもの」とは誰か:戦争とモダニズムの詩学』(青土社)発売中!
http://www.seidosha.co.jp/book/index.php?id=3765
左川ちかの詩をジェンダーの観点から論じる章を収録。今回の発表とはまた別の作品群を解読しております!
本全体は、一部がモダニズム詩、二部が戦争詩を扱っている。
現代と1920年代の繋がりを探る観点。(テクノロジー、ジェンダー、メディアなど・・)
「動物・機械」など「人間ではないもの」の表象を、主体の危機や人間概念の変遷という側面から追いかけています。(左川ちかは「昆虫」を取り上げました)
詳しくは青土社さんページへ→http://www.seidosha.co.jp/book/index.php?id=3765
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