ADHDな私

こんにちは、ベーコンです。哲学者とは特に繋がりはありません。
今日は突然だけどADHDの私のことをお酒でも飲みながら書き出していこうと思う。飲める人はお酒でも飲みながら、飲めない人はソーダでも飲みながら見てほしい。
別に当てはまるから私はADHDなんだとかは考えないで欲しい。
あくまで私のことだから。
今回はこだわりについて書こうと思う。

最初に

簡単にいうと私は好きなことしかできない。
お菓子づくり。絵を描くこと。推しを推す。歌を歌う。寝る。何かものをつくる(カラーボックスの組み立てなど)。こんなものだろう。
基本的に何かを作り出すのが好きで、頭の中に浮かんだ絵や図を目の前に再現できるのが楽しいのだ。
あと一時期は頭の中で工程を映像で再生できたので、一度見たレシピや制作方法は大体再現ができた。これは鬱になってからできなくなったところがある。

私の興味は基本面白い新しいものへ向かう傾向がある。みんなそうだと思うけれど、私の場合少々度がすぎるところがある。らしい。
例えば以前ミュージカルにハマったことがある。友達にオススメされた2.5次元ミュージカルを録画で観た瞬間ハマってしまった。
何これ面白い。もっと観たい。と。
それから私は『その録画』を三日間観続けた。1人暮らしだったのもあり朝起きてテレビをつけミュージカルを観た。授業を受け帰ってきてミュージカルを観た。晩御飯を食べながらミュージカルを観た。なんならミュージカルを流しながら寝ていた。しかも新しいものやバックナンバーを借りるということをせず、おんなじ映像を繰り返し観ていた。


ハマるとそれしかできなくなるのだ。好きなものはとことんリピートしたいのだ。小学生の頃は好きな本を何回も借りていた。借りすぎて他の本を借りるよう先生に言われることがあるほど借りた。携帯を手にしてからは好きな音楽を延々と聞いていた。これを周りの人や心療内科の先生に話すとよく言われることがある。「こだわりが強いんだね」と。

強いこだわり

多分私の人生で一番邪魔をしてきたのがこのこだわりの強さで、一番私を支えてくれたのもこのこだわりの強さなのだろう。そう思う。

例えば、小さい頃おもちゃを譲れなかったりとか、晴れなのに長靴がいいとか。
簡単に、本当に簡単にいうとそれが直らなかったのだろうと私は私のことを思ってる。
まず直ると表現できるものなのかどうかもわからないが。
いつか成長の途中でくる、あ、ここは特にこだわらなくてもいいな。という、肩の力を抜く、ということをしてこないで、いや、できないまま大人になってしまったのだと思う。
その結果が肩の力を抜くことができない、何事にも真剣になってしまうメリハリのない自分ができたのだ。
そういう点ではとても上手く肩の力を抜いていた同級生男子をうらやましいと思ったことがある。どうして彼らはあんなに上手く生きることができていたのだろうか。外側から見たらそう見えるだけなのかもしれないが、とにかくうらやましかった。

何事にも真剣になれるっていいことって思うかもしれないけど、疲れる。
何事にも真剣は、疲れる。ストッパーがない状態とでも言えばいいのか。
採算度返しで動いてしまう。自分のキャパをいつまで経っても知ることができない。気づくと充電が切れて動けなくなってしまう。どれも苦い経験がある。
疲れた結果、どこかが壊れてしまう。体だったり、心だったり。
時にはそのまま死んでしまうこともあるんだろうなと思ったこともある。
こだわりに人生を縛られていたんだと思う。

ただ、こだわりにはいい部分も確かにあった。

最初に言った通り私は絵を描くことが好きだ。保育園の時からそれはもうチラ裏に絵を描きまくった。小学生時も自由帳なるものを何冊も更新していった。
中学は美術の授業にそれこそ真剣にのめり込んだ(そのくせ部活は吹奏楽だった)
一次創作もしまくったし友達の妄想空想を絵に描き起こしたりと絵を描くことに忙しかった。人生のほぼ全てを絵と歩いてきたことになる。
その結果絵や切り絵で賞をいただいた。あの時の嬉しさはなんとも言えないものだった。その後も大学受験など私を随分と後押ししてくれた。
他にも、つくったお菓子を美味しいと食べてくれることや、DIYなど人に喜んでもらえるものが、私の人生の中でこだわりがいい方に向いたものだ。

いい部分が随分少ないと思うが、こだわりとはそれだけあれば何もいらないほど強く大きい存在にもなりうる。そういうものだと私は思っている。

言いたいことがなんとなくまとまらなかったが、これは私の文章能力の問題だ。

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