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第10回の2:ロックと不良が、再びくっついた頃

高木完『ロックとロールのあいだには、、、』
Text : Kan Takagi / Illustration : UJT

ビームスが発行する文芸カルチャー誌 IN THE CITY で好評だった連載が復活。ストリートから「輸入文化としてのロックンロール」を検証するロングエッセイ


ニューヨークの〈ペパーミント・ラウンジ〉に僕は行ったことはないが、日本でツイストとブレイクダンスが広く知れ渡ることになったきっかけが、同じ店からのものだったというのが最高だ。このときのブレイクダンスの話題は、ほんの僅かではあるが、映画『ワイルド・スタイル』が日本に来る前の話だった。ツイストに関しては、チャビー・チェッカーのヒットがまずあったにしても、ジョーイ・ディー&ザ・スターライターズの「ペパーミント・ツイスト」が日本で大きな人気となった。彼らは〈ペパーミント・ラウンジ〉のハウス・バンドだった。だから同店がきっかけで産まれた曲がこれで、1961年に発表され、62年初頭に大ヒットした。日本ではツイスト男として知られる藤木孝がカバーを出しているのだが、そのあとマイトガイ小林旭も自身のバージョンをリリースしている。

その頃の日本におけるツイストの盛り上がりや(伝播の遅れこそあったが)ブレイクダンスから始まる、今のヒップホップからのダンス・ブームを考えると、日本においてもポップ・ミュージックの一部ではダンスが重要なファクターなのでは、と思わざるをえない。これはまた別の機会に考察してみたい。
 
自分がロックをレコードで、こづかいの中から買って聴き始めたのは中学1年のときからだ。ビートルズが入り口ではあったのだが、とっくに解散していた。当時の人気バンドはクイーンであった。ロックをそれほど沢山聴いていない自分にとってクイーンは重要なバンドだったが、来日公演を見に行っても、別世界から来た、まさに外タレであり、自分と同じ人間とは思えなかった。

すごいなあ、、、

複雑そうに聞こえる曲も、その思いに拍車をかけていたかもしれない。少女漫画風な見た目もそうだ。

だいたい当時TVで見る男の歌手やロック・ミュージシャンはジャンプスーツやなんかそんなかんじの派手な服を着てる人が多かった。クイーンも衣装はその系統で、ラスベガスで歌うエルヴィス・プレスリーまでいかなくともショウをやる人、と、いったかんじ。僕らとは別世界。TVにしょっちゅう出ていた西城秀樹にしろ歌は大好きだった沢田研二にしろ、別世界過ぎて、格好も真似したくなるかんじではなかったし、ああなりたい、と思うものでもなかった。

そんなある日、TVで『ぎんざNOW!』を見ていたらキャロル解散コンサートの特番の番宣が流れた。1975年の話だ。日本のロック・バンドに興味を持つことがなかった自分には新鮮な何かがあった。バイクに囲まれてキャデラックに乗ったメンバーが、リーゼントで言葉づかいも乱暴で、バンドというよりも、どう見ても不良だった。だから逆に、楽器を持っていたのが意外だった。少なくとも僕のまわりでは、あの頃楽器を練習する友人に不良はいなかったから。僕も友達とバンドをやって、友人宅でよく音を出していたが、みんなちゃんと勉強もやるタイプで、エレキ=不良、の時代は自分の中では過去、に、なりつつあった。

なので、不良でバンドをやるカッコ良さ?みたいなものを初めて目にしたのがキャロルだったのだ。

しかし、彼らはもう、バンドとしては存在していなかった。キャロル解散以後、有象無象の、リーゼント・スタイルのバンドがいっぱい出てきて、TVで見てはいたのだが、遅れてきたキャロル・ファンな自分としては、ピンとこなかった。

その頃の地元の中学では受験派と暴走族予備軍派で分かれ始めていた。どちらにも友達はいたんだが、その頃の週末、最大の話題といえば、暴走族の話だった。その類の話が自分は興味深く、見に行った予備軍派の友人や、先輩から聞くのが好きだった。そんなある日、1人の不良な先輩が教えてくれた。

ずうとるびの新井っているだろ、あれ、本物だぞ。

(つづく)

70年代、ずうとるび時代の新井康弘さん。

次回は現在の新井さんご本人がインタヴューで登場予定。お楽しみに。



高木完
たかぎ・かん。ミュージシャン、DJ、プロデューサー、ライター。
70年代末よりFLESH、東京ブラボーなどで活躍。
80年代には藤原ヒロシとタイニー・パンクス結成、日本初のクラブ・ミュージック・レーベル&プロダクション「MAJOR FORCE」を設立。
90年代には5枚のソロ・アルバムをリリース。
2020年より『TOKYO M.A.A.D. SPIN』(J-WAVE)で火曜深夜のナビゲイターを担当している。

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