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連載 第九回:克服÷フィクション

最果タヒ『MANGA ÷ POEM』
Text:Tahi Saihate / Illustration:Haruna Kawai

ビームスが発行する文芸カルチャー誌 IN THE CITY でも大好評だった詩人・最果タヒの新連載が登場。好きな「漫画」を、詩人の言葉で見渡すエッセイ


 現実にある苦しさは全てが乗り越えられるものではないと思うのです。どんなものも人間は克服できるなんていうのは嘘で、絶対に起きてほしくないことが起きることはあり、そしてそこで、折れてしまうのは自然で当たり前のことだと思います。人間は強いとか、周りは支えることができるとか、そういう話ではもはやなく、どんなに立ち直ろうとしても、そして立ち上がることができたとしても絶対に失われたものや奪われたものは返ってこない。返ってこないんです。「それでも生きようとすること」それだけが強さで、そうやって立ち直ることができないことは本当に弱さだろうか。奪われたくないものを奪われた人は、立ち直らなくちゃ弱いんだろうか。私はそうは思わない、何も取り戻せないのに「強さ」なんて言ってほしくないと思う。でもそれでもこの世には立ち直ることの美しさがあまりにも語られ続けている。

 そしてあの『ルックバック』も立ち直る物語だ。

「取り戻せないもの、どうしようもないこと、最悪の出来事が起きたとき、それを覆すのが物語ではなく「それでも生きていく人」を描くのが物語で、でも、と思う、でも、と望んでしまう、その気持ちもひっくるめて、こうやって物語にしてくれるなんて素晴らしいな。」
 これは、私がこの作品を初めて読んだときのツイート。現実には終わりがなくて、現実には救いがなくて、現実には伏線がなくて、現実はつねに不条理で、最悪なことが起きたとき、その不幸に理由があることなんてほとんどない。理由などないのに急に来て、なにも埋め合わせなどないまま傷だけ残して去っていく。物語と違って辻褄が合うことはなく、それなのに物語のように終わってはくれない。ひたすらに続いていくのだ。生きていくしかないのに、生きたところで報われるかはわからない。生きていれば痛みが薄れるなんて保証があるわけもない。それでもそこから逃げ出すのも容易ではなくて、逃げれば他の全てを巻き添えにしてしまうことだってあった。こんな日々の中で、だから人は物語を読むのだと私は思う。現実から目を背けるためではない。現実から目を背けて、それで忘れられる現実なんてどこにもない。むしろ、現実を現実として直視して生きるために、物語は必要なんだろう。

 ルックバックは、最悪の出来事が起きてしまった後、それが起こった原因とも言える2人の出会いが「なかったとしたら」というたらればの別の世界線を描いている。この物語に登場する出来事に限らず、人は不幸としか呼べない出来事に遭遇したとき、それが起きなかった世界線の自分を想像し、そしてそんな日々に憧れながら、もう絶対にそこにはいけないと繰り返し思い知る。今も、昔の自分のままでいられたら。これからもずっと平穏な日々が続くと信じ込んでいる過去の自分が誰よりも幸せそうで羨ましくて、でも、もうその幸せの儚さを知ってしまった自分には、あの日々を過去のようには謳歌できないとわかってしまった。どんなに平和を取り戻しても、「あのころ」は帰ってこない。幸せだったはずの日々を反芻しても、その日々そのものを当時のまま感じ取ることはもうできなくて、失われたものの輪郭を撫でるようにして、思い出すしかできなくなるんだ。
 ああしておけばよかったと思い返す度に、そう思わずにはいられない現実の自分をはっきりと意識してしまう。たらればを考えてしまうたび、どうしてそれが頭から離れないのか、夢を見るたび、現実から目を背けるたび、むしろ、どうして目を背けなければならないのか、その理由がより鮮明に見え、心にまとわりついてくる。夢を見るというのはいつだって、現実を見ることと等しい、自分が何を欲していて、何を求めているかを意識することに等しい。何を奪われて、何を失ったかを、忘れられなくなることに等しい。

『ルックバック』の主人公が筆を折ったとしてもおかしくなかった、と私は思う。それに「がんばれ」とは思わない、思いたくない。立ち直ることは鮮やかで美しいけれど、立ち直れないことが、立ち直ることより劣っているとは決して思わないから。そしてルックバックは、そんな未来を否定してはいない。作品の中で彼女は立ち上がるけれど、それは、あくまでその世界がフィクションで、「そうではなかったたらればの世界」を描けるからで、その世界とファンタジーの力で繋がることができるからこそ、彼女は立ち上がることができた。ルックバックは「不幸を克服すること」そのものをフィクションとして描いている。ファンタジーにさえしていて、だからこそ現実に苦しむ人に届く作品なのだと私は思う。
 ルックバックの主人公は、そこがフィクションの世界でなければ、ファンタジーがあり得る世界でなければ、筆を折っていたかもしれない。その可能性は当たり前にそこに生き続けていた。あるのは「物語だからこその克服」で、でも、だからそれを私たちは見届けることができる。現実で「立ち直れないこと」を否定しないから。立ち直ることがこんなにも難しく、不可能であることを、むしろ証明しているから。立ち直れない人にも、朝の光が注がれると、どこかで信じさせてくれる。そして私はそれこそが物語が見せることができる「夢」だと思っている。

 物語だからこその未来。物語だからこそ見届けられる「克服の美しさ」はあり、それを目にする時、「克服したい」と願っている自分に、人は気付けるんじゃないかって思う。立ち上がりたい、生きようとしたいと、願っている自分に、気付くことができるのかもしれないって。それがたとえ難しいとしても、ずっと忘れて、諦めてきたことだとしても、できることならそうしたいとどこかで願っていた自分に、もう一度出会うことができるかもしれない。現実の克服のエピソードでは難しいこともあるだろう。人は強いとか、仲間がいるとか、そんな励ましでも難しいに違いない。物語らしくファンタジーの力を用いた、美しいフィクションの中にある克服こそが、「それに惹かれる自分」をたまに静かに照らしてくれる。それは、どうやっても生きようとしてしまう自分を、ただの「死にきれない人間」ではなくて、「生きようとする一人の人間」として改めて見せてくれる、そんな鏡なのかもしれない。
 美しいのは立ち直ることではなく、立ち直る物語に惹かれる一人のその人自身だと思う。『ルックバック』はそんな美しさの気配が奥に立ち尽くした物語です。

・『ルックバック』(藤本タツキ・著)少年ジャンプ+
https://shonenjumpplus.com/episode/3269754496401369355


最果タヒ
さいはてたひ。詩人。詩やエッセイや小説を書いています。
はじめて買ってもらった漫画は『らんま1/2』。
はじめて自分で買った漫画は『トーマの心臓』。

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