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彼女は死んでもペンを離さなかった

 昔は良かったなあ。みんなタバコを吸っていた。まあ、そう言うと、今の嫌煙社会を嘆く喫煙者と思われるかも知れないが、実はわしは吸っていなかった。大らかだった時代性を懐かしんでいるだけだ。
 わしの場合は、吸っていいのは女性のオッパイだけだと父親からきつく言われていたからな。それともう一つ、タバコを吸って鼻の穴と口から煙を吐くこと自体に抵抗があった。美意識に反したんだな。
 当時のフランス映画やハリウッド映画では、美男美女がタバコを吸いまくっていたから、みんな影響されたんだろうなあ。美男美女がそういうシチュエーションで、最高の演出で吸うから格好よく見えるだけで、あんた、普通の日本人が吸ったら不細工極まりない。鼻から煙など、滑稽以外のなにものでもない。
 キスシーンも同様だ。
 たまに街中でキスをしているカップルがいたりするが、よく恥ずかしくないものだ。キスシーンというものは、映画の中だからこそなんとか美しく見えるんであって、街中で見る普通の男女のキスシーンなど汚いことこの上ない。美意識に欠け、自己愛が肥大した行為と言えるだろう。
 君たちもやめておきなさい。隠れてこそこそやるのがキスである。
 さて、喫煙の話だ。
 職場でもみんな吸っているものだから、部屋全体がもやっていた。一番奥の部長席などかすんで顔が見えなかったほどだ。
 一度、一人の女性が嫌煙権を主張して立ち上がったことがあった。病気になったんだそうだ。
 煙を吸うまいと、仕事中できるだけ呼吸を浅く、時には止めていたものだから、それが原因で呼吸器系の病気になったのだという。
 当時は、まだ受動喫煙などの被害も知られてはおらず、そうした声を上げる人は珍しかった。わしも無知だったせいで、自分が非喫煙者であったにも関わらず、その女性に対して「面倒くさいやつだな」と敬遠した記憶がある。非常に申し訳なかった。
 そんなある日のことだ。
 非喫煙者の女性が、身動きしないことに隣の男が気づいた。名前を呼んだのだが反応がない。何度も名前を呼び、それに気づいた回りの同僚たちもザワザワしだした。
 わしも見てみたんだが、確かに微動だにしない。原稿用紙を前に、当時我々の業界で流行っていた0.9ミリのシャーペンを握りしめて、そのままじっと動かないのである。
 適切な言葉が浮かばずに考えこんでいるのか、それとも眠っているのか。わしも文章を書きながら眠ってしまうことはよくあり、目が覚めて原稿用紙をのたうち回る何匹ものミミズを発見して大いに驚いたものだ。
 室長がやってきて「おい、君」と肩を叩いた。すると彼女の身体がゆっくりと傾き、床の上に倒れかけ、室長が危ういところでキャッチした。
 彼女は、死んでいたのだ。
 すぐに救急車で病院に運ばれたのだが、死亡が確認された。死因は、窒息死だった。意識を失ってからも息を止め続けるのは困難だと思えるのだが、呼吸器系の疾患が合わさって窒息に至ったのかもしれない。
 なぜ、死んでもペンを離さずに、机に突っ伏すこともなかったのかは不明である。おそらく弁慶の立往生と同じだろう。職業意識の非常に高い女性だったから、できるだけいい文章を書こうと、必死だったのではないか。
 今、世の中は喫煙者に厳しい状況である。路上喫煙は禁止され、喫煙コーナーはどんどん減り、会社内での喫煙などもってのほかである。なにより受動喫煙の弊害がはっきりと証明されたのだ。
 あんたが生きていたら、さぞ喜んだろうになあ。
 わしは、そう思いながら彼女の顔を思い浮かべた。
 今わしの手には、彼女が使っていたのと同じ0.9ミリのシャーペンがある。ただし色は白である。当時は、黒しかなかったが、今は全部で6色展開だ。
 この間、文具店で見つけていまだに売っていることに驚いた。全色を買って帰り、そして、数十年ぶりに彼女のことを思いだしたのだ。
 あんたなら赤が似合ったろうになあ、とわしはつぶやいた。


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