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神殿の向きなんか関係ないと力説したいのですよ私は。

こうしてあれこれ調べていると、今まで何の疑問も持たずに受け入れてきた事柄の根拠に疑義が生じ、自分なりに深掘りしていくと「なんじゃそれ。マジかよ!」という結論に至って、しみじみとがっかりすることもあるのだけど、よくよく考えてみるとそれはそれで喜ばしいことなんだよね。
真実じゃないことを盲信したまま人生を終わらせるなんて、考えただけでゾッとするもの。
お道は会長さんや先輩の声に素直に従うのが当然であって、疑問を抱いたり反抗するのは信心が足りない不届き者と見なされるよね。本当にそうなのかねえ?
日本では空気を読むことを美徳とされてきたけど、天理教ではその傾向がさらに強いよね。でも無批判に受け入れることを良しとする風潮がめっちゃ危険だってのは歴史が証明してますよ。大東亜戦争の大本営発表とかでさ。
まあ信仰は信じて仰ぐと書くくらいだから、あれこれ考えずに受け入れるのが当たり前なのかも知れない。その方が楽だし。でもさ、脳が熱を持つくらい考え抜くという信仰態度ってのもアリだと思うんですよ。
私はそっち派。

たとえば、「ようぼく」の定義って何でしょう?
天理教公式WEBサイトには
「おさづけの理を戴いた人を『ようぼく』と呼びます。」
って書いてあるよね。天理教人ならそれくらいは常識だね。でも常識を疑って調べてみると「へぇー」という事実が判明したりするんだな、これが。
まず大前提をはっきりさせておきたいんだけど、原典に「よふぼく」って単語は出てくるけど、おさづけを戴いた人が「ようぼく」だ。という根拠になるものは一つもないんだよね。つまり教祖が言ったわけじゃないってことだな。
じゃあ誰が言ったんだって話しになるけど、悪いけどそれは知らん。
明治41年、天理教が悲願の一派独立を果たした時に

「信徒にして授訓を得たる者を教徒と称する」

天理教辞典(第三版)

って決められたのは確かなんだよ。あ。授訓ってのが「おさづけ拝戴」のことね。授訓の方がなんかカッコイイな。
おさづけを戴いたら「教徒」と認められたんだね。「教徒」は現在でいう「教人(教人資格検定講習修了者)」とは別モノだから勘違いしないようにね。
実は「よふぼく(ようぼく)=おさづけの理拝戴者」と決められたのは昭和34年。伊勢湾台風の年です。結構最近なんだね。

信者で、さづけの理を受けたものをよふぼくという。

天理教辞典(第三版) 教規と規定

ほら、人間が決めてるじゃん。二代真柱の時代だね。私も知らんかったけど。
この件に関しては決して悪いことばかりではないのでケチをつけるつもりはないですよ。でも、教祖は「おさづけ拝戴=ようぼく」とは言っていないんだから、おさづけを戴いていない人でも、教祖の目に叶う人なら「真のようぼく」だと思うんだよね。
ことほど左様に、お道の決まり事の中には教祖が仰ってないものもあるわけですよ。
天理教には「天理教教規規定及規則」ってのがあって、たとえば現行のそれには

第*条 天理教は、親神天理王命を信奉する。
第*条 天理教は、中山みきを教祖と仰ぐ。
第*条 天理教を統べ理める者は、真柱である。真柱は、中山氏を名乗る。真柱の継承者は、教祖の血統者の系譜に基づき、本部員会議において推戴する。

天理教教規規定及規則

みたいな大事な事がこと細かに定められているんですよね。
「信者で、さづけの理を受けたものをよふぼくという。」ってのも、ここに明記されてるんです。
また、上記の条文によると真柱については教祖の血統に連なるってのが条件で、中山姓を名乗る必要があります。
真柱が世襲することについて、以前はあまり気にしてなかったけど、

刻限(前おさしづに基づき中山會長へ御願い致しました處、會長は前川方は中山のある限りは粗末にはせんと仰せ下されました、前川方へ行き御話傳えました。)
さあよく/\聞き分けるなら、一つの話をしよう。分かりてあるやろう。分かりてあるだけでは運ばん。前々以て一つ尋ね出る處、中山家のある間、一つも粗末にはせんというは、どういう處より出るか。この理を聞こう。神の方より聞こう。

明治24年1月28日 夜8時半

中山家の続くまで救けるというは、親族の理であろう。三十年以前の理を聞き分けるなら、何も分からんやない。...親族といえどもどうもならん。

明治24年1月28日

などのおさしづに触れて、ちょっと疑問を抱くようになりましたね。
「中山家が存続する限り、前川家は粗末にせんとはどういうこっちゃ?
30年前のことを思い出してみぃ。親族だから特別な理があると思とったら大きな間違いやぞ、ゴラァ!」って中山眞之亮氏(初代真柱)が激オコられてるおさしづなんですよね。
「この理を聞こう。神の方より聞こう」という神からの強い問いかけの体裁を取るお言葉は珍しいから、よほど腹に据えかねたんでしょう。(神様に腹があるかどうかは知らないけど)
元治元年の「大和神社のふし」という30年前に出来した大事件の際に、教祖の実家である前川家に仲裁を頼んだんだけど、何もしてくれなかったんです。でも、その時の意趣返しというわけではないですよ。多分。知らんけど。
とにかくここで明確に「親族の理」を否定されているんだから、「教祖の血統を承継する」は甚だ疑問であります。まあ、血縁が無いより有ったほうがいいか、的な理解はできなくもないですけど。
それにしても中山家を中心とした本部員や大教会長の縁戚関係を図にすると、まるで蜘蛛の巣と東京の地下鉄路線図を合わせたような複雑さで驚いちゃいますね。身内を増やして守りを固めた感がありますぞ。いいのかなあ、そんなことで。

それからこれは疑問というより指摘になりますが、教会の神殿はおぢばに向かって建築しなければならないという決まりがあります。(今は随分融通がきくみたいで喜ばしいことです)
𠮷川彰布という方が日本建築学会技術報告集 第25巻 第60に発表した論文に

管長となった中山正善は、1930年(昭和5)4月6日に回教徒である川村狂堂に案内されて清眞寺を訪れ、初めてイスラム教の礼拝堂を視察している。
そこでの様子を中山正善は「回教徒たる者は、如何なる時にもメッカの方向に向かって、礼拝するのであって、礼拝堂の如きも、其の方向を上座としてつくられてあるのだ」と感想を述べている。
中山正善はこの経験を経て同年10月に昭和普請を発表する。
それまでの教会本部には(図2)のように「甘露台」の奥に社が置かれている構成になっていたが、1934年(昭和9)に完成した新しい教会本部神殿では、甘露台を中心とする本部神殿の参拝構造へと変わり、(図3)ぢばの中心性が確固たるものとなった。

天理教教会の軸性について
本部神殿
昭和普請の本部神殿

それから4年後の同年12月に一般教会の「ぢば」へ向ける発表へとつながる。(中略)
1934年(昭和9)12月9日の天理時報にて「新築教会の神床は総て“ぢば”の方向に」と発表され(図5)、そこでは、その第一号として「ぢば」に向けて設計されている新しい東京教務支庁の神殿をならうようにと紹介されている。

天理教教会の軸性について-大教会を事例として-

という記述があり、天理教の教会の神殿がおぢばを向いて建てられるようになったきっかけが、二代真柱がイスラム教の礼拝堂を視察したことにあると知り、マジでがっかりしました。イスラムが悪いと言うのではなく、あのカリスマ二代真柱が他宗教を真似したってのがちょっと残念というか。
こう書くと「おぢばに向いてて何が悪い!」と叱られそうですが、私は「おぢばに向いてなくて何が悪い!」と反論しちまいますよ。勿論、おぢばを向いて神殿を建てることを悪いとは言いません。でも神殿がどっちを向いてたとしても、心がぢばに正対してたらそれでいいんじゃないの。日本は狭いし土地もアホみたいに高いんだから。
まさか親神様がぢばから一歩も出ないわけでもあるまいし。ていうか神は内在にして包括。人間の身の内に入り込んでご守護くだされもするし、全宇宙を包み込む存在でもあるんじゃないの。
そうだ。ちょっと科学的な検証をしてみましょう。
教会の神殿の親神様のお社。お鏡でもいいですが、その真正面に座った時に、正座した膝先がちょっと左右いずれかにズレてしまったとします。
それによって真正面に対して角度が1°ついた時、1メートル先でどれだけズレるのかを似非物理学者Beが計算してみましょうね。
d=1*sin1°=1*0.0175=0.0175(m)
約0.018m。つまり1m先で1.8cmズレるんですよ。
10m先で18cm 100m先なら180cm 1km先は18mもズレます。
真正面に座っていても、5°角度がつけば1m先で9cmもズレます。10m先なら90cmも正面を外すことになるんです。
分度器(最近見たことないなあ)を見れば、5°って本当にわずかな角度ですよ。真正面に座っていてすらこれだけズレるんです。
これとは別に、親神様の真正面に座れなかった人は、そもそもお鏡を斜めから拝するわけですから、視線の延長線(お鏡の先)は最初からとんでもない方向を向いていることになりますね。
神殿内での自分とお鏡との位置関係ですらこれほど狂いが生じるのだから、それぞれの教会とおぢばの距離を考えると、正対するなんて不可能ですよ。
もっと言うと、逆にどれだけズレていようとも、地球をグルグル何周も回ってるうちに、いつか必ず正対するんじゃないの。だから神殿の向きなんか関係ないと力説したいのですよ私は。
長年、土地の無駄遣いと普請をする会長さんの苦悩につながってきたこの決まり事を、年祭を機に公式に撤廃してはいかがでしょうかね。

某分教会神殿

それから、そのお鏡の更に奥のお社に鎮座する「おめど(おめどう)」様についても

大正5年に山沢為造が「教祖が教えた『天理王命のつとめ』が弾圧にあってつとめられなかったのを復活してつとめる」と称して、八咫鏡(ヤタノカガミ)の模造品を天理王命の御分霊として「天理王命のつとめ」をつとめる教義に改めた。

「ほんあづま」№438

という記述があるのですが、真偽のほどは定かではありません。なんちゅーても天理教が目の敵(私自身は八島氏の研究には敬意を払っておりますが)にする八島氏のところの機関誌ですから。
でも私はあり得る話しだと思っています。時代が時代です。思いっきり神道に寄せていっていた時期ですもの。それに鏡であることは間違いないので八咫鏡の模造品である可能性は大ですよ。
それが本当に三種の神器の一つの八咫鏡を模したものであれば、祈りの目標物にする意味が分からんですよ。
「おめど(おめどう)」と言えば、会長就任のお許しをいただいた直後に会議所に集合して本部員からお話しをいただいたのですが、「会長は万が一の火事などの場合は、身を挺しておめど様をお守りし、持ち出して欲しい」との訓話に身の引き締まる思いをしたのを憶えています。
それが八咫鏡のレプリカなら「今野。そこに神はおるんか?」

そこに神はおるんか

って大地真央が言うぜよ。どっちにしても、天理教の神様の定義からすると、「めどう」は命に代えて護るべきものでもないように思うんだけどねえ。
いつものようにダラダラと書いてきましたが、天理教の常識といわれるものや天理教が独立にからんで無理くり神道色に染めたあれやこれやなど、人間が決めたどうでもいいことを撤廃するか、修正するか。とにかく正しい形に復元してもらいたいなあ。
年祭は『復元』の旬だと思うんだよね。90年祭、100年祭と神道から拝借していたあれこれを撤廃してきたけど、正しく復元すべきことはまだまだ残ってると思うんだよね。
年祭だからといって数字や形にばかりこだわってると、とても大事な「求心力」というものを失うよ、きっと。

ではまたいずれ。


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