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Perfect Days 10点中9点

私だけだろうか。
小説でもままあることだけど、映画やドラマのような映像作品を見ると、鑑賞後は腑抜け状態になってしまい日常生活に身が入らなくなってしまう。

”いい作品“ほど、見終えたあとその余韻を引きずりすぎて深追いしてしまうので、私は映画もドラマも避けている。本当は見たいのに。

そういう意味で、役所広司さん主演の“Perfect Days”は見なければ良かった、とも思うし、見れて本当に良かったとも思う。

10点中10点。
だけど、考えすぎてしまうから10点中9点だ。

昨夜夫とリビングルームで鑑賞して、今日は一日中、映画のことを頭の片隅で考えて過ごしていた。

タランティーノ監督のパルプフィクションみたいな映画が好きなアメリカ人夫に、映画の感想を尋ねると「僕の好みの映画ではないし、また見たいかと言われたら見ないけど、悪くないね。」と一言。

主人公の平山の生活は、”miserable(みじめだ)“というのが彼の感想だった。

平山ほどではないけど、普段から夫は寡黙な人だ。だけど、彼はスリリングでエキサイティングなこと、大ドンデン返しが大好きな典型的なアメリカ人気質を持っているので、東京のトイレ清掃員、平山の淡々とした一日の繰り返しは刺激が少なかったのだろうと思う。

にも関わらず、面白いのは、この映画にある静寂とただ流れる映像の中で、私たち夫婦はポツポツと独り言のようにそれぞれが言葉を落としていたことにある。

「怒ったね、平山。」
「そりゃ怒るよ。1人で2人分の仕事してるんだから。」

「あぁ、また1週間経ったんだね。彼、コインランドリーに来たよ。」

「銭湯のお湯に浸かってブクブクするの、子供っぽくてかわいい。」

「思うけど、平山ってあんまり所持金がないのに、フィルムカメラに結構なお金を使うよね。フィルムも高いし、現像代も高いのに。」

「この同僚のガキきらい」
「この同僚のガキ、ちょっと見直した。
案外いいやつだ。」

普段だったら映画が終わるまでお互いに話すことはないので、この黙ってればいいのだけど言わずにはいられない間合いというのが、私たち夫婦には斬新だった。

映画館ではなく自宅で見て良かった。

私たちがポツポツとこぼした映画に向けた言葉も全部まとめて余韻となって、私の中で今も引きずっている。

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夫は、映画の冒頭で「カセットから流れる音楽は歌詞の意味を知らない人が選んだと思う。曲調はメランコリーで映像にあっているけど、歌詞がミスマッチすぎる。」と言っていた。

確かに何でこの歌詞?と私も思ったけど、あえての選曲なのは当然のこと。
絵と音と言葉をぴったりはめるのではなく、あえて不揃いにすることで「おや?」と思わせる効果があると思う。

この映画の魅力は、音楽に(も)あるのは誰もが肯定するところだと思うし、ヴィム・ヴェンダーズ監督のインタビューを聞いても1つ1つこだわって選曲したのが分かる。小津安二郎に傾倒している監督なので、小津作品の音楽効果を模しているのは言うまでもない。


私としては、スナックのママ役で石川さゆりさんが登場し、ギターに合わせてThe Animalsの「The House of Rising Sun (朝日のあたる家)」を歌ったのが驚きでもあり、感動した。

夫が「映像に歌詞の内容が合わない」と冒頭で一蹴りした歌の1つで、その和訳、視点の異なるバージョンをママが歌ったことになる。

こういった細かい演出と外堀の登場人物が、自身では多くを語らない平山という人物像を色濃く形作ることになる。

ママに想いを寄せているからこそ、その歌を車で聞いて仕事に向かったのだろうか、とか。


ーーー

映画に出てくるシーンは、外国人から見た日本のユニークさや魅力がたくさん描かれていた。

例えば、駐車場にある缶コーヒーが買える自動販売機。
例えば、地下道にあるちょっと小汚い飲食店。
例えば、勝手に出てくるつきだしや飲み物。
例えば、裸の老体が集まる公共浴場。
例えば、おじさんがママチャリに乗る姿。
例えば、有名な建築家が設計した芸術的でスタイリッシュ、かつウォッシュレットの公共トイレ。

あげたらキリがない。

海外に長く住んでいて、何年も日本に帰っていない私にも、その日本という国の切り取り方は興味深く感じた。

[木漏れ日]という言葉は外国語では翻訳ができない日本人の感性がつまった言葉。

外国に住むからこそ気づくのは、日本という国はものすごく独特で奇妙で、美しいカルチャーを持っているということ。それを改めて思い知らされるのが、本映画の別の魅力と言える。

ーーー

さて、ここまでは物語の本質というよりは、演出としての面白さを書いたのだけど、物語としてどうだったのか。

夫の言うように平山の生活や生き方は、“みじめ”なのか。

昨夜、映画を見たあと、このnoteも含めてあちこちのレビューを読んだ。

その中で、
「私も平山のような生活がしたい」というものが多かった。

意外だ。

私なら嫌だなと咄嗟に思った。

トイレ清掃はできればしたくない。
...「平山のような生活がしたい」という言葉の真意はそこじゃないのはわかっている。

私からみると平山は、他者をみんな受け入れているようで、実はかなり排他的に生きていると思う。
平山を木になぞらえると、どっしりとそこに佇んで誰でも許容する懐の深さがあるけど、同時に他者に働きかけることはない、傍観者的な存在でもある。そこにいるようで、そこにいない。
誰かを積極的に助けることはない。

彼の生活は慎ましやかで、静寂が漂っている。
私はそれに惹かれる一方で、同じ一生を生きるなら色んな店で食べたいだとか、あれこれ欲しいだとか煩悩を捨てられない。
ときには誰かを助けたり、一方的ではなく、双方での心の交流がしたいとも思っている。
平山のような生活はしたくない。

「小さなことに幸せを感じる喜びを大事にしたい」というのも多かった。

空を見上げて顔いっぱいに朝日を浴びる幸せ。
小さな木を育てる喜び。
一番風呂に入る開放感。

誰かからの評価ではなく、自分の中で幸せを見つけてゆっくりとやさしく微笑むことができるのは尊い。
誰でも心に平山のような繊細さとか喜びを持っていると思う。

彼はみじめな生活をしてると私は思わない。
他者から見れば、寂しいとか惨めだとか評価されることもあるというのは分かる。
でも彼は好きでその僧侶のような生活を選んで、目の前にある今をまっすぐ生きることに徹している。

彼の光のような生き方が、彼の影の部分を濃く映し出した。

だから美しくもあり、みじめでもある。
平山が毎晩、今日と明日の移り変わりで見る夢は文字通りの影であり、その影の描写を見るたび私は心をゾワゾワとさせた。
だから次の日にまたザッ、ザッと箒が路面を掃く音がして夜明けが来ると安心をする。

映画のラスト、3分間の、平山の、役所さんの表情の移り変わりは圧巻だった。希望と不安と、喜びと悲しみと、正しさと間違いと、光と影と、たくさんのものが見えた。

完璧な日々とは結局どういうことだろう。
歳をとってまた映画を見て、この問いを考えたい。

単に電通を挟んで東京のトイレのプロモーションから始まったとは思えない、何年も残るだろう芸術的な映画だと思った。





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