その一言から

先日から勧誘が続いているが、頑として関わらないようにしている。
普通に楽しくお喋りしていたいのに、どうしても最終的には勧誘の方に話が向かう。これが基本的な勧誘の流れなのかもしれないが、自分が求めていないものを勧められたり、熱弁され、時間を割く相手として丁度いいと自分が選ばれたことが悔しい。ネットなどでは、「目を覚ませ!」と友人に言われたという人の体験談も目にしたが、私はどうも押しに弱く自分の意見を通せないので、説得などには向いていないし、勧誘のプロである彼らもすぐにそれに勘づいただろう。それに、そこまで誰かをどうにかしなければ!と強く思う気持ちもない。楽しかった時間が実は勧誘のために設けられたものだったのかもと思うと、悔しさも一入だ。それだけだ。


待望の休日は不眠気味でYouTubeや片付けに明け暮れた。
目が冴え夜遅くまで片付けをしたり、眠いのに眠れずYouTubeをずっと見ていた。

引っ越しにあたり、ある手続きで自分が普段怖いと感じている人にシフトの変更を申し出なければならず、「こういう意味にも取れるよね」という文章にならないよう細心の注意をしたつもりだったが、それは無意味だと思った。
いや、無意味では無かったかもしれない。もし私が細心の注意を払わなければ、更に恐ろしい文章が帰ってきていたかもしれないからだ。この場合、「期待する程の気持ちの良い文章が返ってこなかった」が正しいだろう。やはり相手に期待しないことは難しい。ここまで深く掘り下げなければ、こんな些細なことでも私は相手に期待をしていたということに気づけなかったのだから。

そう思ったのは、今、この文章を入力していると頭の中のモヤモヤが文章化されて大分整理されているように感じるからだ。

苦手な人や嫌いな人は自分の鏡だと前々から実感していたが、未だに受け入れられずにいる。言われたことをずっと引きずる上、反芻してしまうのは私だけではなく、むしろ多くの人の悩みのようで、その悩みに対して多くの人が様々なツールで解決法を提唱している。紙のノートに気持ちを書き出すことがとにかく有効だそうだ。私のnoteはそのためのツールとしての側面が強くなり、読者のことなどほとんど考えておらず、なんなら読者なんていないだろうと思っているのでnoteの本来の使い方とは違うかもしれないが、まあいいかと思うことにした。だって私のnoteなんだから。


–とにかくその際の連絡の返答には、やはり何か一言棘のある言い回しが見受けられ、情報の受け取り方次第では伝える側の意思など何の意味も無いのかもしれないと相手を残念に思った。だがそれも当然のことだ。相手が何を考えながら文章を打っているのかなど都度考えている人はそういないだろう。情報の伝達が第一の目的なのだから。だがこの場合の"意味"とは、やはり先に述べた通り、自分が期待したような返事がもらえなかったということに帰結する。子供のような言い分で自覚するのが恥ずかしく認め難く悔しいが、事実に近いと思う。

サンプル1の大したことない経験談(愚痴)なのでなんの根拠もないが、私をモヤモヤさせたその思いやりのない、もしくは悪意があると思わせるような文章を打つ人の気持ちを、私は無益にも解ろうとているのか、相手は鏡だと言い聞かせ、そこから何か得るものを見つけるために分かろうとしているのか、ただどうにか自身の心の平穏のために納得しようとしているのか、相手を想像通りの悪者に仕立て上げることで納得しようとしているのか。

やはり逆の立場になるとよく分かることだが、相手が何を考えながら気持ちを伝えようとしているのか押し図ることは困難で大変なことだ。従って、相手のことを深く考えることを簡単にできるようになるか、相手を限定するかしなければ人間嫌いに拍車がかかりそうだ。

そもそも私が相手にそんな文章を入力させるようなことを無意識にやってしまっていたのかもしれない。それなら因果応報だ。思えば私に降りかかるモヤモヤやイライラの原因は大体因果応報だ。幸いにも理不尽な目に遭った記憶はあまりない。

気づきがなければ反省はできない。
長い目でみれば幸運なことだが、万が一私について是正したほうがいいことがある等と告げられることがあったとして、私はそれを、誰から言われたのかを気にせず言葉として素直に受け入れることが、残念ながら恐らくできないだろう。

L.C.L.みたいに、みんなは自分で、自分は相手なんだと、こうやって文章を打っていない時にも思い出して冷静になれればいいのに、私の冷静さは保たれない。冷静でいられるのは、文章を打っている時間だけかもしれないと今は思う。文章は支離滅裂だったとしても、夢の中や、眠りにつく前より遥かに落ち着いて考えられる。それは考えたくないことで、いつもの私なら、考ることでイライラするのが嫌だし面倒で、「うざい。死ねばいいのに。」で片付けてしまう事柄だ。そうやって頭に追いやってきたものは、頭の中で片付けられていないので、いつも頭の中にある。考えたく無いことを考えないように毎日一生懸命だ。だが一生懸命だからこそいつも考え、思い出し、何年も前の嫌な思い出を繰り返し味わって、前に進めていない。

文章を打っているときは、イライラしないで考えることができる。いつかはこれを自動でできるようになったらいいな。

–何か頼み事をするとき、受ける側としてはなんでもないことでもある。特に都合に問題がなければ、私はあっさり二つ返事で返すだろう。頼む側としては申し訳ない気持ちがつきまとう。更に上下、貸し借りなど、何かを負ったり負わされることもある。そんなに気負う必要はないのだが。

「目上ではなくとも年上であるあなたに敬意を払って」

という程度の気持ちがぴったりだ。"程度"と表したものの、簡単に持てる気持ちではないと思うが。ちなみに私はこの台詞が好きだ。

だが、嘘。本当は怖いだけだ。その人が怖いのか、その人だけでなく、本当は人と関わるのが全般的に怖いという思いに程度があるのかもしれない。多分、身の回りの多くの人は私がコミュ障とは思っていないだろうが、"何か"あって、普段のコミュニケーションの「そういえば」と思い出される違和感などがあった時、それは確信になるだろう。

–多分、私の鏡なら、何か足りないんだろう。
自尊心とか、自己肯定感とか、愛情とか。自分で思いつく限りのそんなありふれた足りないもの。でも大切なものが。
突き詰めるとそう表すことができる何かがあったり、無かったりするから、言葉の節々に棘が生えるのだろう。生やしているのかも分からないが。
または、相手のことを考えながら文章を打っていると、イライラしてくることもあるかもしれない。私が相手のことを考えただけで恐れを抱いたように。

ただ単に「好き/嫌い」だけではない気持ちを自身に向けていることに気づかないほど鈍感な私とは真逆だと思われるが、"通常通り"に対応し、なんならねじ伏せようとする"ように感じさせる"のが怖い所だ。
というように私"も"また、いつの間にか色眼鏡でしか物事を捉えられないようになってしまったんだろう。嫌だなあ。「””」を使って私は棘を生やしているのだ。自覚がないのは進行している証拠であってほしい。と表すことで相手を下げてもいる。

これは生来の性格なのかもしれないが、後天的に拗らせている部分も大きいと思われる。これまでの人生で身につけた処世術なのかもしれないと思うと哀れだ。そしてそんな哀れな私の人生になんの関係もない人のことを考えながら時間を割いて文章を打っている私は愚かだ。

やっぱり、誰かの愚痴を言いたい気分の時は、このように支離滅裂な文章だったとしても書き起こせば、結局自分のことを言っていることがよく分かる。誰かにとっては支離滅裂でも、自分が後で読み返したときに「なんこれ、恥っず。黒歴史やん。」と思ったとしても、今の私が、言い訳や棘や悪口を抜きにした、本当に近い納得ができている気がする。それは本当にすごいことだ。なんせ今までまともに自分と向き合えなかったのだ。全て「つもり」に過ぎない。

明日、誰かに愚痴を言わなくて済むかもしれない。大好きな人に「また愚痴ってる」と思われたり、思われたらどうしようと悩まずに済む。愚痴を言いながら、「人のこと言えないけど」と言い訳や自虐のこもった言葉を枕詞にすることもないかもしれない。イライラがヒートアップしないかもしれない。それを見ないふりして、また思い出したくない思い出リストに含まれなくなる。かもしれない。

明日そのチクチクして痒い文章を読み返した時は、今のこの気持ちを読み返して落ち着いてくれるといいな。数時間後の近い未来の自分。


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