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N4書房日記 0718-0724

0718

謝罪文の出た後も炎上は止まらず、擁護した人まで責められている。13:00からは美学校の配信トークイベントでテーマが「渋谷系」。このタイミングでこの話題なので、コメント欄が荒れても不思議はないくらいなのだが、いたって静かで最初の視聴者は三十数人ほど。最後までその倍ほどにも至らなかったので、そっちの方が残念。前々から「良質なポップス」という言い回しは気になっていたが「ポップ・インズ」発の言葉だったらしい。あの雑誌の細野さん表紙の号と、野宮真貴表紙号は宝物である。

 

自分はファンとしてコーネリアスのあの発言をどう見ていたかというと、オザケンの万引き同様で、まったくの作り話ではないにせよ「ウソ」「フカシ」「誇張」が混ざっているものと捉えていた。だから、今回の件に至るまで非難や咎めることや「ファンとしての注意」「進言」なども考えたことすらなかった。

 

しかし、あれがもし犬や猫の虐待だったらどうだろうか。もしそうだったとしたら、もっと早くその言動の異常性や危機感を持てたはずなのだ。障碍者いじめよりも小動物の虐待の方をより重く見ている自分は何なのか、「僕は犬や猫を空気銃で殺さない程度に虐めていました」「グルグル巻きにして」「ウンコ食わせたり、バックドロップしたり」という発言だったとしたら、その時に自分は「音楽と作る人は別だから」と言い切れたのかどうか。

 

 

 0719

音楽を少し聴いただけで猛烈なファンになるのと、記事の一部をほんの少し読んだだけで猛烈に憎しみを感じるのと、そう大差はない。


移ろいやすい心とは、たいてい飽きやすさを意味するが、ゼロが急に100や1000に燃え上がるような移ろいやすさもある。

 

 「プロミシング・ヤング・ウーマン」を観てきた。あまりにもドンピシャのタイミング過ぎて、コーネリアスの件と結びつけるのが躊躇われる。しかし観なければいけないと考えて行ってみた。いろんな意味で息苦しい。しかし単なる復讐劇ではなく、ポップだし、コメディのような側面もある。主演のキャリー・マリガンが「ドライブ」や「華麗なるギャツビー」のあの女優とは気づかなかった。

 

何だかしきりに「中庸」の利点を考えたくなる。それは最も退屈で平凡でありきたりだが、深い叡智に裏打ちされている。誰もが中途半端にしか情報を得られず、半端にしか世界を知らず、過去も未来もろくに知らず、半端な判断と行動を積み重ねて生きている。大人も子供も、賢者も愚者も。だからこそ、「ほどほど」であることを常に意識しておかなければ制御しきれない地点にまで行ってしまう。

 

今日はさらに在日朝鮮人いじめの件までネットに上がっており、もはや進退窮まったということで、夜に辞退を発表。

 

オリンピックは放映権の問題があるから無理にでも開催して、パラリンピックになったら「国民の命を守るため」と称して中止にするのだという説があり、実際に子供の応援スケジュールに関してはそこが少しも進んでいないらしい。「総理の決断が日本を救った」くらいの飾りがついて、それに同調したら本当のバカだろう。結局、開催地が決まる過程も、その前後も、おそらく閉幕後まで金まみれ、利権まみれの下らない茶番劇だ。

 

 

0720

近田春夫が自作の「オリパラ音頭」をアピールしているが、これは本気なのか冗談なのか皮肉なのか揶揄なのか自虐なのか迎合なのか、文脈を理解できない。おそらく、リスナーとしての自分がこの人の作る音楽にまったく興味を感じないからだろう。ひたすら「無」を創造しているのかと思うとすごい。

 

そもそも開会式というものを生中継で見た記憶が一度もない。「あと一週間でどうやって作る」「いやできる」と揉めているテーマソング的なものは、絶対に新曲でなければならない、という奇妙な信念がどこから来るのかさっぱり分からない。

 

単純に応援もできず、単純に非難もできない状況なので、こういう難題に突き当たると山本夏彦を読み返したくなる。健康で順調な時は忘れているのだが。歩けない時の杖のような箴言ばかりなので、少し紹介してみる。以下全て「何用あって月世界へ」より。

 

“そこにないものを見ないと、世の中のことは分らない。それというのも、ものはそこにあるものより、ないものから成ることが多いからである。”

 

“新しい取巻きに取巻かれて得意にならない人はいない。十年二十年取巻かれていれば別人になる。初めて推してくれた人の前でだけ、もとの無名にかえるのは困難である。”

 

“ひとはどこまで無実か――悪事が露見するまで無実である。”

 

“「告白」というものは多くまゆつばである。自慢話の一種ではないかと私はみている。”

 

“人はその言論の是非より、それを言う人数の多寡に左右される。”

 

“善良というものは、たまらぬものだ。殺せといえば、殺すものだ。”

 

“他を難ずる人は、自分のことは棚にあげているのだから、その言葉には痛切の響きがない。むしろ景気のいい響きがあるから、聞くものは同じく自分を棚にあげて。そこに八百長による和気の如きものが生じるのである。八百長だからそれらはたいていあとで痛烈だとほめられる。だから私は痛烈だという言葉を好まない。痛烈といわれるもので浅薄でないものはまれである。”

 

“自信はしばしば暗愚に立脚している。”

 

 “作り話が実話にきこえるのは、そのなかに本当の部分があって、それがうその部分を覆うからである。”

 

“事実があるから報道があるのではない。報道があるから事実があるのだ。”

 

“馬鹿は百人集まると、百倍馬鹿になる。”

 

 

0721

鬼畜系や悪趣味ブームが「あった」「なかった」で言い合っているのを見ると、60年代から80年代までの澁澤龍彦とか、モダンホラーの人気が出始めた頃とか、そういう流れともまぜこぜになっている自分は何なんだろう。ホラー漫画の専門誌が出始めた時期とも重なるように思う。

 

「この人はちょっと避けておきたい」と思っていた人たちの方が確かなものの見方をしているのを知ると、結局は過去の自分の不見識に気づかされる。

 

 夜20:00からツイキャスで吉田豪+ロマン優光の“小山田圭吾と90年代悪趣味サブカルを改めて語る”を視聴。やはり「少し話を盛っているのでは」という認識と、編集者の書き方の問題(特にQJ)、今とは常識の尺度が異なる(たとえば万引き)、そしてオリンピックの仕事をなぜ引き受けたのかという疑問。そして、いくら罰したところで(反省しても謝罪しても叩かれる)いじめの抑止力には全くならないと。このあたりはこの問題を考えるための最低限の共通理解として押さえておきたい。今日は和光の同級生のコメントがニュースであったとか、知らなかった。

 

視聴していて途中で急にスプラッタームービーの流行や、カルト映画ブームも思い出した。アイドル歌手が「血まみれホラーを見ながらチキンナゲットにケチャップをつけて食べる」と喜んでいた。そうした空気が急に宮崎勤の事件で一変し、急減したのだった。当時のおたくバッシングとか、それを擁護したFGのことも思い出した。

 

 

0722

コーネリアス以上の規模の炎上はないだろうと勝手に決めつけていたが、朝になったら小林賢太郎の「不謹慎な言葉の選択」によってもっと大きな騒ぎになっていた。しかし過去のコントからの切り取り方がいかにも不自然で、恣意的で、これを問題視するのは「問題視しましょう!」と大喜びでいる側の悪意を感じる。「Aを揶揄する」のと「Aを揶揄する人物像を揶揄する」とでは大違いなのだが、そこをわざと混同して「問題視すべき!」と持ちかける。これはもう正義ではなく偽善ですらない、ただの放火魔ではないか。誰も拡声器のある所で不謹慎なジョークを言ったりはしない。過去の発言の前に勝手に拡声器を置いて広めるのは、明らかに悪ではないのか。

 

コーネリアスの件はだんだん死刑制度を巡る議論にそっくりになってきた。責める側はひたすら「復讐!」「制裁!」「殺せ!」で、それ以外の慎重論や「冤罪かもしれない」という声は耳に入らなくなる。応報感情を「正義」にすり替えて興奮する、その種の人間の書く粗雑な言葉はすぐにそれだとわかる。そういう言葉を書きたくないと思ってこれまで生きてきたし、今後もそうする。

 

爆笑問題のラジオで一時間以上も小山田圭吾について語られていたというので聴いてみた(放送は火曜日で、今日は木曜)。少し遅れたおかげで、あ~これは誰それのことを言ってるんだなと思える箇所もあった。また「当時の現場で何が起きていたのか、誰が何をどう行っていたのか」を明らかにするべきだと。私も「グルグル巻きにしてバックドロップ」「ウンコ食わせた」を、そう簡単に実行できるとは思えなかったので、だからある程度の誇張をそこに読んでいたのだ。また、それほど問題視するなら、当時のジャーナリズムは何をしていたのかという疑問も提示していた。

 

 

0723

QJの記事の全文をちゃんと読むべきだ、という意見や、当時の和光の内部を知る人の考えが少しずつ出てきた。

 


QJの方は、「小山田圭吾は質の悪い編集者に乗せられただけ」という意見を見かける。私もそれに近い考えを持っていたが、普通に読めば村上清だけがそう悪い訳でもない。有名人のコーネリアスではなくて、回想されているのは普通の、判断力も人生経験も乏しい少年期の小山田君にすぎない。小5で「太鼓クラブって、もう人数が五人ぐらいしかいないんですよ、学年で。」というくらい地味なクラブに入っていた小山田君であり、中三の修学旅行では「村田と僕とその渋カジ(笑)」の三人の班になってしまう小山田君である。これは上流階級として気取っているようには見えないし、精神がおかしいほど鬼畜な人物でもない。どちらかと言わなくても弱い方のグループではないか。「卓球や瀧と手を組むのではなく、まりんとMETAFIVEにいるコーネリアス」という人間像と少しも矛盾しない。

 

北尾修一が「いじめ紀行を再読して~」を公開して、「元の記事を知らなかった」という声が続々と出ている。この人はQJ編集長時代にNY突撃のあれの御膳立てをしたようなものだし、今の擁護派にとっては味方だが、明日の攻撃対象になるかもしれない。そちらを蒸し返される可能性が出てきた。

 


 今日の自分のツイート。




0724

1960年の「壮烈新選組 幕末の動乱」を観て、司馬遼太郎の「新選組血風録」を読む。香山リカの「ヘイト・悪趣味・サブカルチャー――根本敬論」も読んでみた。自分はヘタウマ系の一種として根本敬は読んでいたが、さほど記憶になく、むしろ影響下にある山田花子やねこぢるや山野一の方が印象的だった。この本には書かれていない筒井康隆の「乗越駅の刑罰」や「最高級有機質肥料」、式貴士の「カンタン刑」ほかを思い出した。


昨日は村崎百郎の命日だったそうで、以下の文章によれば(当時の)クイックジャパンなど生ぬるいという。それはそうで、この辺を「無かったこと」にして蓋をしたせいで潔癖すぎる環境になってしまった。和光のように理想的な教育を目指していじめの温床を作ってしまったのと、まったく同じことが日本全体で進んでいるのではないだろうか。毒や悪を知らず、偽善と偽悪につけ込まれて、雰囲気とポピュリズムだけで物事が動く社会になってしまう。



“『クイック・ジャパン』と赤田とかいうお嬢様野郎の名誉にかけて書き添えておくが、人でなし最低鬼畜の俺が馬鹿にするということは、鬼畜的発想で考えればヘタレだが、その逆にまっとうな人間たちのまっとうな世界では正当に評価されるべき極めてまっとうな物件だということだ。実際、俺の見たかぎり『クイック・ジャパン』はどんなにヤバい人やテーマを取り上げて取材しても、ライターも編集部も上品で優秀な人材が揃っているせいか、すべてバランス良く健全にまとめて「文部省特選」が付いてもおかしくないほどオシャレで清潔で、父兄同伴で安心して読める“オモテのサブカル誌”になっている。オレが世間知らずの清くて正しい善良な田舎のガキだったら、毎月発売日に本屋へ走って買いに行き、ドキドキしながらページをめくったことだろう。これは皮肉でも何でもない。本や雑誌というのは素直に読めば作り手の顔が見えてくるものなのである。明るく健全すぎる『クイック・ジャパン』には、『危ない1号』のように読者を悪に目覚めさせ、あわよくば鬼畜に堕として地獄の快楽を味わわせてやろうという邪悪な意図や悪意などまったく感じられないし、『危ない1号』に邪悪さを感じて“いいんですかこんな本出して!”と思う人間の感覚の方が、鬼畜の俺よりもはるかにマトモで正しいのだ。”


小山田圭吾の件は、激しいバッシングこそ減った(実際、言及しているのはファンだけ、という風に来週はなりそう)ものの、最も大きい、しかも避けられたはずのミスは「オリンピックの仕事を引き受けた」点にあると私は思っている。正直なところ、今後QJやROJの編集部や編集長、出版社の社長をぶっ叩いても、謝罪会見をさせても、土下座させても「問題はそこではない」と感じる。

坂本龍一は依頼されて即座に断ったというし、それを聞いて「やっぱりなあ」と納得できる。誘致の段階からエンブレム、新国立競技場、その他その他で枚挙に暇がないほど問題だらけの腐ったオリンピックで、しかもMIKIKO、椎名林檎ほかの有名人が去った後の段階で、なぜ引き受けたのか。

その安直さ、判断力の乏しさが致命的なミスとなったので、そこが最も残念でならない。90年代の不用意な言動をゆがんだ形でほじくり返されたことよりも、その過ちの方がずっと悲しい。



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