N4書房日記 2022 0101-0110
0101
新年一冊目に読み終えたのは斉藤倫「ぼくがゆびをぱちんとならして、きみがおとなになるまえの詩集 」。
タイトルは長いものの薄い本で、童話で詩のアンソロジーで、表紙が高野文子で、「ほんとのこと」についての本でもある。
0102
歌詞カードに出てこない母音について考えている。
歌唱の合間に入る、感極まった母音による叫びは「あ」「う」「お」であって、「い」「え」にはならない。それなら「イェー!」と叫ぶのはどうなるのか。これはすぐに「エ」になってしまう音なので、結局は「イ」を伸ばしにくいという結論になるのか。
0105
ドミューンの影響で、コーネリアスの件について考えを書く人が少しずつ増えてきた。自分も検証サイトを読んでいるうちに「どこまで謝罪すれば認められるのか」の線引きや、過去の事例との比較、「作品と人格は別」とする場合の説明をどうしたらよいのか等、考える種が増えてきた。
永山則夫の文芸家協会関連の問題が1990年で、すっかり世間から忘れられている。この手の問題は強者ならいつでもスルーされて、弱者と見なされると袋叩きである。
もう一つ、気になるのは任命責任が「ある」と、はっきり言っている橋本聖子が、もはやこの問題には関係がないような場所にいることで、今はいったい何をしているのかと思ったら中国大使との接待ゴルフで非難されていた。
責任が「ある」と本人が言っているにも関わらず、なぜか免責になり、関係者でもほぼ無関係になれる。そういう奇妙な在り方とは不可思議で、いくら謝罪しても許されない人とは天地の差である。
「この人は全くこの問題に関心を持っておらず、責任など追及しても意味がない」と皆が思っているからこそだし、実際に「任命」の実務には関わっていないだろう。では本当の任命責任はどこにあって、誰を問いただせば分かるのだろうか。
0106
道徳の起源や「責任」について、参考になる本はないかと探していて、ハンナ・アレントを少しずつ読んでいる。読んでいるうちになぜか、プロデューサーに関する資料の方に入れたくなるような記述や定義のようなものに当たる。ソクラテスが「シビレエイ」「産婆」の譬えを持ち出すところなど。
今日はさほど降らないと言われていた雪がやや多めになった。
メルマガの発行申請が通ったので、実験的に1号を書いてみた。
0107
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0108
歌唱において母音は常に、現れては伸びようとしている。植物のように。
それを切断したがっているのが子音である。草刈り鎌のように。
現れたがる母音と切断したがる子音の、欲望と欲望の戦い。
それが歌唱なのだ!!
と、力説したくなってきた。
あるいは、宇宙の彼方からこの闘争を眺めるなら、母音はモールス信号のようにトンとツーをランダムに繰り返している。
ひたすら何かを意味したがっていて、そのたびに叱責される、わがままっ子のように聴こえるのかもしれない。
問:歌とは何ですか?
答:母音と子音による闘争の場です。
0109
メルマガの読者が数人なので、自分と同じようにまぐまぐから自動的に宣伝ばかりのメールマガジンが届いているかと思うと気の毒になってくる。
0110
音楽や文化史関係の年表のまずい点は、発行部数や売り上げ枚数の多い物だけ数字を書くところで、当時の空気感を感じられない。「百万部」「二百万枚」という数字はニュアンスを消してしまう。羨望や憎しみ、歓喜や悲哀といった感情が見えない。
「天才」「おしゃれ」という単語は考えるきっかけを奪い去る単語ではないか。
その点、古い雑誌を読んでいると広告や読者欄、デザインやレタリング、手触りも含めて全てが当時の空気を感じさせる。いくら読んでも飽きない。
やっぱり「ベレー帽とカメラと引用」06号からは古雑誌関係の考察を始めようかと考える。タイトルは「古雑誌をめぐる旅」とでもして、書き手をわざとらしく自称「旅人」とするのはどうか。ゾクゾクするほど古くさい感じが逆に楽しく感じられる。
今回の記事の写真は「ロッキング・オン」1991年12月号のもの。「ヘッド博士」のセルフライナーノートに出てきた架空の作家、ジャック・ターへの言及がある。
*この日記は不定期更新です。10日に一度くらいの更新を予定しています。
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