人生とは瞬間の幸福の積み重ね。Life is the accumulation of momentary happiness.

人生は選択の連続だ、ということは、誰でも知っています。しかも、選択したら変えることができません。いや、選択を変えるだけなら、できるともいえます。けれど、Aを選択して、その選択を廃棄して、改めてBを選択するとき、あなたの時間は確実に流れています。だから、すでに違う人生が展開しているわけです。1秒もあれば、局面はずいぶん変わります(鴨長明に指摘されるまでもなく)。同時に複数の選択をすることはできないのです。仮にパラレルワールドを信じたとしても、あなたや私が生きることのできる人生は、とりあえず1つでしょう。

先のことは誰にもわかりませんが、先のことを知りたい人も多いようです。私は? 考えると鬱になりがちなので楽観したいです。楽観が前提だとすれば、特に先のことは知らなくてもいいのかもしれません。そもそも人生にはナビがありません(私が知らないだけで、どこかにあるのかも)。あったとしても、少なくとも私には不要です。アラカンで無職という現在地にいる私は、どこかで道を間違えたのかもしれませんが。そもそも自分の前に道などないのかも(高村光太郎に指摘されるまでもなく)。人生のゴールが成功だと思う人は、最短ルートを最速で目指すために、ナビが必要でしょう。人生とは「瞬間の幸福の積み重ね」と思えばナビはいらないですよね。

あのときこうしていれば、今、こうなっていなかったのに。という思いは大抵「後悔」と呼ばれます。あのときこうしていたから、今、こうしていられます。という思いは「成功」と呼ばれやすいでしょう。しかし、どれほどの差があるというのでしょうか。あったのでしょうか。それは死ぬまでわからない、と思いたいです。死んでもわからないかもしれません。きっと、まだ、わからないさ。「永遠の嘘をついてくれ」と、中島みゆきは吉田拓郎に歌わせています。

そういうことを思ったのは『巴里の空の下セーヌは流れる』( 1951年/ジュリアン・デュヴィヴィエ監督)を観たからかもしれません。映画の主人公は巴里で、その時間はセーヌ川のように流れていきます。それぞれの人生が交錯します。巴里で生きる老若男女は実は巴里の細胞なのです。ある者は生き抜いて、ある者は死んでいきます。それが人生。PARIS1951。

TOKYO2020、いや、JAPAN2020のそれぞれの細胞は、今、この瞬間に何を思うのでしょうか?

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