そうだ京都行こう(墓参り)。Yes, let's go to Kyoto (visit a grave).

 先ほど、お墓参りから帰ってきました。妻の実家のお墓参りです。仕事が決まった内定の報告でした(お礼のつもりで)。妻の実家のお墓は京大の近くにあります。久しぶりの京都でしたが、ずいぶん人が少ない印象でした。
 そのお墓に眠る人を私は2人知っています。1人は妻の祖父(妻の母の父、以下Aさん)です。Aさんとは、生前会ったことはありませんが、電話で話したことはあります。30年ほど前に妻と付き合い始めたころ、妻の自宅に電話をしたとき、「はい」とAさんが電話に出ました。老人の声を聞いて、私は間違い電話をしたと思って、すぐに切りました。その後しばらくして、Aさんは突然亡くなりました。
 もう1人は妻の叔父(妻の母の弟、以下Bさん)です。Bさんには、結婚直後に妻と一緒に挨拶に行って、結婚のお祝いをもらいました。他にも、年始の挨拶のときに皆で鍋を囲んだり、二人で甲子園球場にタイガースを観に行ったり、仲良くしてもらいました。でも昨年の夏、Bさんは突然亡くなりました。
 詳細は、ここには書けませんが、私はAさんとBさんが亡くなったすぐあとに、その遺体を亡くなったままの状態で見ています(そこに警察官もいました)。AさんとBさんの遺体を、亡くなった直後に見た私は、何とも言えない気持ちになりました。特に、悲しくもありません(申し訳ありません)、怖くもありませんし、気持ち悪くもありませんし、嫌でもありません。だからといって、他人事だとかも思いませんし、自分と違う世界のことだとも思いませんでした。
 もう生きてはいないが、まだ死んではいない。医学的(生物学的)には、そのとき何が進行しつつあるのか私にはわかりません。もちろん霊魂についても、私には何もわかりません。ただただ、不可逆的に死に向かいつつあるものを目の当たりにしている、という印象でした。それは、とても新鮮であり(申し訳ありません)、生と死の貴重な学びの体験にもなりました。
 そういうAさんとBさんが眠るお墓をお参りしていると、お墓参りは死者との対話であるとともに、自分との対話であり、生と死を考える良い機会になると、いつも思います。

追伸

 自分の実家の墓参りは1998年の5月に行ったきりですが……。

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