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勇気ある反復(そして差異)の賛歌――『シン・エヴァ』を観て

※ネタバレを気にする人はそもそも読まないと思いますが、ある程度ネタバレには配慮して書きました。

 『シン・エヴァ』を観た。なんという事はない。多くの人が、世界中の人が、これから観る物語を観ただけ。それが多少早かったというだけのことだ。
 結論から言えば、「良かった」と思った。変哲もないただの賛辞に過ぎない。「エヴァ」の、誰もが待ち望んだ最終作を、遂に観たということに酔っているだけなのかもしれない。

 ただ一つ、個人としては、そこまでエヴァシリーズに対して思い入れも期待も持っていなかった。度重なる公開延期に対しても、「またか」という以上の感情が湧かなかった。なぜか?
 それは、『エヴァQ』[2012]を観たときの違和感に尽きる。あるいは、序、破、Qと連なってきた新劇場版シリーズの存在意義に対する疑問がQに析出したともいえる。パチスロ等に見られるように、もはや一大コンテンツと化した「エヴァ」を反復することは、旧劇場版にて提示した問題系に反するのではないか?それは一種の「アニメ」補完計画なのではないか?

 そうした疑問に対して、『シン・エヴァ』が与えた回答は、それでも「反復を繰り返すことは「逃げ」ではない」ということか。本作は、初見で記憶に残る限りでも、自他を問わず、あらゆる過去作の反復に満ちていた。プロトタイプ化したエヴァの群列に立ち向かい敗北するアスカ、ボロボロになりながらシンジに運命を託すミサト、といったシークエンスは、旧劇場版の反復ではないか。また、個人的には、ゴテゴテしたデザインのヴンダーによる大気圏突入や決死の突撃といった場面には、ヤマト[1974-]やガンダム[1979-]の系譜を感じ、グッときたところがある(ヴンダーのデザインや描き方に対し、Qの時点では、「特撮/アニメオタクの自己満足では?」と思っていたのだが、なかなかどうして感動してしまった)。あるいは、シンジとゲンドウが舞台を切り替えながら――ある意味シュールで笑いを禁じ得ないような描き方で――激突するシーンは、押井守監督作『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』[1984]のあたるvs夢邪気の一連のシーンを連想させる。その他、演劇的とも言いうるが、虚実を転倒させ、画面に異化効果をもたらす演出アプローチは、押井守に限らず、庵野の盟友・幾原邦彦(例えば、『少女革命ウテナ アドゥレセンス黙示録』[1999])が取り組んできたことも忘れてはならないし、『魔法少女まどか☆マギカ』[2011]を代表として新房昭之が継承してきたものでもある。

 このように、セルフオマージュも含め、「反復」を幾通りにも指摘可能な本作だが、重要だと思うのは、「エヴァ」というシリーズが積み重ねてきた時間の重みだ。エヴァは、旧シリーズと新シリーズの間に、商業アイコンとしての地位も確立した。作品自体のアート性を離れ、自立したコンテンツになったとも言えよう。本作の端々に現れるプロダクトプレイスメントはその象徴ともいえる。パナソニックやスズキを筆頭に、画面上には「出資者」としての企業名が映し出され、本作の商業商品としての一面が露わになっている。それは、シンジ(あるいは庵野秀明?)の意向に関わりなく、エヴァは反復を要請されるということでもある。

 そうしたことに対して、希望を上回る「絶望」を認識し(希望-絶望が常に隣り合わせだということは劇中でも描かれていたが)、おのれの無力さや罪の意識に苛まれながら、「閉じた世界へひきこもる」という選択を取るのは簡単だ。アニメの世界だけではない。旧劇場版やその同時代からいままでを俯瞰したうえで、この日本で「希望」を称することは難しい。一方、独りで絵を描いたり、ピアノを弾いたりするだけなら、文句を言う人も、金儲けに利用しようとする人もいないのである。
 しかし、一個人がひきこもったところで、それでも「リアル」の世界は続く。どんなに影の落ち込んだ土地でも、少しの光が指せば、暮らしは続いていく。ある意味で、人々は忘れっぽいのである。それは悪いことばかりではない。なぜ、人ははたらくのか?その「意味」ばかりを追いかけて生きられるほど、人は良くできていない。どんなに悲しくたって、腹は減るし、めしはうまい。

 大地に立ち、反復を引きうけること。それが、庵野秀明の選んだ道。先に、庵野の意向に関わりなく反復は要請されるということを述べたが、一応の事実として、庵野は自らの意向を最大限にシステムの中で実現するための布石を打ってきた人間である。スタジオカラーの設立はその一部にすぎない。庵野の言動は、一見して、オトナになることを拒否した童心のかたまりのようにも映るし、実際そうした一面がなくては成し得ない表現もあるのだと思う(エヴァに乗り込むチルドレンのように)。しかし、庵野は、恐らくそれ以上に成熟したまなざしを持っている。加地のように残し、ミサトのように守り、育てること。特撮、漫画、アニメ、等々の影響を受けてきた文化に敬意を払うだけではなく、それを残し、伝えていくためには何が必要かを考え、実行すること。それができるタフネスを持っている。
 そして、そのときに庵野は決して独りではない。作中に、恐らく鶴巻和哉センスなキャラのマリや、安野モヨコ風味のミドリが現れるように、『シン・エヴァ』は旧劇場版以上に周囲へのまなざしに開けた作品なのである。
 なお、一部の声優の配役には、近年のアニメ作品の目配せも感じられ、それもやはり未来への繋がりが感じられた。最高にグーでした(庵野風)。

 かつて『エヴァ破』[2008]にてマリが歌ったうたがある。

しあわせは 歩いてこない だから 歩いていくんだね
一日一歩 合わせて三歩 三歩進んで 二歩下がる
                    水前寺清子『365歩のマーチ』

 せっかく三歩進んだのに二歩も下がったらダメではないかとも思えるが、逆に「一歩」でも進んだなら素晴らしいと素直に感心したいこのご時世である。この後には「四歩の後退」が続くかもしれないが、それでもかまわない。「五歩の前進」を続けて繰り出せばよいのだ。
 そうして、反復の中の差異への挑戦はこれからも続いていく。

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