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悪意のない悪

ここ最近調子が悪く、相変わらずうるさい思考を停止したい欲がある。
そんなメンタリティだから、人の言説を見て何とも言えないもやもやにぶち当たることが増えた。

人に優しく。その言葉の曖昧さが嫌いだ。優しいとはどんな行動や気持ちのことを指すのか、さっぱり分からない。そんな曖昧なものが共通認識として共有されているのかと思うと怖くなる。僕は考えた。僕の思う優しさを。人はどんな時に人に優しいと言うのかもよく観察した。

僕と恋人には共通の知人が何人かいる。その知人全員が恋人のことを「優しい人だ」と言う。僕もそう思う。でも話を聞いていると、僕が感じる彼の優しさと知人たちの感じる彼の優しさには違いがあるようだった。
彼は気が弱い一面を持つ。故に間違っていると思っても、誰かが傷つくかもしれないと分かっても、人の発言を否定しない。(その代わり肯定もしない)恋人のそういう姿を人は優しいと評しているようだった。
僕の思う彼の優しさはこうだ。彼は先入観を持たない。自然にあらゆる可能性を加味して人と接する。要するに人のある行動一つ見ただけで人となりを判断しない。それを当たり前にやる。

僕の恩師もそうだった。人をジャッジすることを嫌う。恩師の場合は(僕自身もそうだが)それを意識的におこなっている。いけないことだと頭で判断して、それに従って人と接する。だから間違っていると思ったらたとえ上司でも歯向かう。権力に屈しない。研究者としても教育者としても優秀なのにイマイチ実力に見合った評価がされていないのは、そういう一匹狼的な性格のせいだと浅学非才の僕は思っている。まあ、だから僕みたいな人間を可愛がってくれたのだろうが。

彼らは、他人は自分と違うという当たり前のことを理解している。他人には他人の人生が、気持ちが、キャパシティがあるということを知っている。
僕が目にし、悲しい気持ちになるのはそういう当たり前のことを忘れてしまっているように感じるものばかりだ。考えることを放棄してしまっているように感じて、どうしようもなく泣きたくなる。
僕の思う優しさとはつまりそういう「考えることを放棄しない」というところにある。
考えることをやめないためには「余裕」が必要なのだと思う。それは精神的な意味でも経済的な意味でも。そこに教養や学力などは必ずしも必要なわけではないと思う。

僕は現状の文句を言いながら現状から逃げられないことも、誰かなら我慢できることで爆発してしまうことも、わるい事だとは思わない。甘えだとは思わない。てか、甘えて何が悪いんだとも思う。他人の甘え(に感じるようなことも)が許せないことこそ、余裕がないのだと思う。
それはもう、ひとりひとりの問題ではない。社会全体が、人から余裕を奪っているように感じる。だから僕は悲しくなる。余裕のない発言をしている人だって、そりゃぶん殴りたくなることだってあるけど、同時に、一概にその人だけが悪いとは全く思えないから。

恩師はいつか、自分が「インテリ」であることを背負わなければならないと言っていた。持つ者としての自覚だ。持つ者は持つ者としての懊悩があるだろうが、それは持たざる者とは別種の懊悩だ。
みな等しく悩んでいるのではない。人は違う悩みを持っているのだ。俺だってつらいのではない。俺は俺でつらいだけなのだ。同じじゃない。
それを忘れている(もしくは知らない?)人があまりにも多い。持つ者も持たざる者も自分と違う生き物について考えるほどの「余裕」がないとしか思えない。

そういう意味で僕は発達障害でよかったと思うことがある。僕にとって人は違うということはあまりにも当たり前のことだったから。常に考えざるを得ない事実だったから。

人に優しくなるために僕は考えることをやめないようにしたい。

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