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人間とねずみの怠惰な一日の過ごし方

僕と一匹のねずみの一日は昼過ぎに始まる。
僕は、両親とデグーという種類のねずみと田舎の一軒家で暮らしている。
SNSで散見するデグーとはまったく違う生き物なのではないかと思うほど、うちのねずみはひとりを好む。だから僕はそのねずみをペットではなく、同居している動物だと思っている。

昼過ぎに目を覚ました僕は、顔を洗い、パリパリに乾燥した肌を潤わせた後、ねずみの部屋を掃除する。その間、ねずみは僕の横で飯を食う。誰もお前の硬い食べ物には興味がないのに、俺のだ!と言わんばかりにピーピー言いながら食っている。小さい手で必死にむしゃむしゃ飯を喰らうねずみを横目に彼が一日でまき散らしたうんこを回収する。大変快便なようで羨ましいかぎりである。

このねずみとは僕が大学を中退し、動物と暮らしでもしなければストレスで爆発してしまうとぼやいていた時に、友人が声をかけ、出会った。
その友人は大阪で一人暮らしをしており、こいつを飼い始めたものの、社会性のあるデグーという種を飼ううえでこの環境はよくないと考え、実家に移したのだが、僕が一日中家にいることを知り、飼ってくれないかと提案したらしい。hhom800000000000000^^^^000000000000000000000000000000(これは今、ねずみがキーボードの上に乗り上げ打った文字である。せっかくなのでとっておく)
僕はこれ幸いとこのねずみを向かい入れることにした。

友人宅に一年、友人実家に一年、うちに来てまもなく三年。おおよそ五歳だと考えられる。デグーの寿命は約五~八年らしいので、まあまあの年齢だろうが、そんな風には見えない程度には元気に自由に生きている。

ねずみの部屋の掃除と飯が終わったら、僕の飯の時間だ。朝食と昼食をまとめて適当に摂り、バルコニーでたばこを吸う。冬に吸うたばこはうまい。いつか冬の山頂でうまい空気とともに吸ってみたいと夢見ているが、怠惰な僕は一生それを行動に移すことはないだろう。

バルコニーからは隣に住む祖父宅とその畑が見える。大層、静かでゆっくりとした時間をすごせるだろうと想像している者がいたら、それは大きな間違いである。空には轟音を鳴らしながら自衛隊の飛行物が飛び回っているのだ。そのせいでこの辺に住む人間がテレビを見るときは常にリモコンを握りしめ、音量調節にいそしんでいることだろう。

それから自衛隊の飛行物には敵わないが、鳴らす量でいったら引けをとらない我が祖母にも注意が必要である。祖母が野菜やらお茶やらを手にうちのバルコニーにやってきた際は、親戚の誰々おばちゃんだとか、近所の誰々さんだとか名前を聞いても顔が思い浮かばない人の個人情報を聞かねばならない。僕は、何も生み出さないような社交的な会話が嫌いなわけではない。むしろ天気の話だとか健康の話だとか、そういうことを僕に話してくれる人は歓迎しているのだが、祖母のする顔や年齢がまったく浮かばない、その人が何者で何をしている人なのか分からないのっぺらぼうの身の上話は、いったいどんな感情で聞けばよいのか分からない故に、退屈である。
こちらが「へえ」とか「はあ」とか「ほお」だとか、さらには「ふう」とため息をつこうが「ひい」と怯えようが、かまわず祖母は話し続ける。
僕がラジオのように相手を無視してしゃべり続ける悪癖は間違いなく、祖母譲りだろう。

祖母の奇襲を喰らわなかったら、僕は読書をするかこたつで寝るか、気合があれば絵を描くか、その日の気分で過ごす。ねずみは僕が退屈であるのを察するとすかさず部屋の扉を嚙みまくり、出せ!と訴えてくる。
ねずみはリビング中を探索し、食えるものがないかと走り回る。こたつが暖まっている場合は、こたつに入り、寝る。最近はゴミ箱からティッシュを漁り、こたつの中に入れるのがブームらしい。


こたつの下は大惨事だが、すぐに同居人(僕)に片付けられる

ネタ番組以外、ほとんどテレビを見ない僕は世界情勢や関心のある事柄はスマホで仕入れる。面白そうな本はないか、勉強になる専門家はいないか。ガザは今、どうなっている?僕ができることは?またヘイタ―が渦巻いている。僕ができることは……なんて怠惰に過ごしながら考えているのだ。
身体は怠け、動かなさ過ぎて肩はバキバキだし、そのせいで頭痛はひどいし、で最悪極まりないのだが、頭は常に外に向けてなにか考えている。

それが続くのも、両親が帰宅するまでである。
僕は洗濯物を畳み、風呂を洗い、帰宅を待つ。家事をすることで僕の悶々とした思考は停止される。人といれば猶更である。
僕は変人な天才ではなく、ただの面倒くさがりな理屈やなだけなので、自分のスケジュールで生きるほどの身勝手さは持ち合わせていないのである。

両親が帰宅し、夕食などを済ませ、両親が寝るまで、僕の思考は停止し、時間も止まっている。

両親が寝てからは、僕とねずみの時間である。ねずみはまた徘徊し、僕はまた思考を巡らせるか読書をする。怠惰なことに変わりはないので、両親の就寝から僕の就寝時間まで三時間あったとしても僕が集中してやりたいことをやれるのはその半分程度である。困ったものだ。
僕の就寝に合わせ、ねずみの一日も終わる。チモシーと呼ばれる干し草を補充し、おやつをあげ、寒さと明るさを抑えるため毛布をかぶせておわり。

この資本主義社会ジャパンを生きる人間の生活とは到底思えない一日を僕は生きている。

そろそろ両親が帰宅するころだ。ねずみを部屋に入れ、風呂を沸かさねばならない。ひとまず僕の時間は終了である。

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