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文学は実学

 どこかで紹介されているなどして気になった本は、その場ですぐAmazonで検索して買い物かごに入れておくようにしている。こうすれば、後からじっくり考えて買うかどうかを決めることができるからだ。そして本屋さんでそのリストを参考に探してみて、なければAmazonでポチることもある。

 そんなリストの中にここ最近投入されていたのが、荒川洋治「忘れられる過去」みすず書房だ。どうやら古本屋さんからしか購入できない状況にあるようだけれど、運よく1冊だけ残っていた。だから急がないと売り切れてこの先ずっと手に入れることができなくなってしまうかもしれない。そう分かっていいても、なんだかグズグズとしてしまう。

 そうこうしているうちに、何冊かをAmazonで購入することになったので、ついでに思い切ってこの本もポチってみた。本は数日後にAmazonの包装ではない封筒に入れられて送られてきた。

 中をあけると、古本とは思えないとても美しい状態の本が現れた。グラシン紙のブックカバーまでついている。そっと表紙を開いてみると荒川洋治さんのサインが書かれていた。なんだか気分が上がる。

 さて、この本を買った理由はなんだったか。確かどうしても手に入れておきたい理由があったはず、と思いながらパラパラめくると、その文章が目に飛び込んできた。

「文学は実学である」

 そう、これだ。読んでみたらわずか2ページのエッセイだった。でも、この文章を私の手元に置いておきたいと、どこかで何かを読んだときに強烈に思ったからこそ、今この本が私の手元にあるのだ。
 で、それはどこで読んだのだろう?思い出せない。情けない。まあ、いいや。またきっとその本にはどこかで巡り合えるだろう。
 今まで私は新書やノンフィクションは好きだけど小説はあまり手にすることはなかったが、新型コロナが蔓延し始めた時にまず手にしたのはカミュ「ペスト」だった。初めて小説から、今の現実世界に向けてのメッセージを読み取ろうと考えながら読んだ。
 食事のときは会話しないという新しい生活様式に反発する声を多く聞いたとき、私たちにとっての食べるということの意味を感じ取りたくなって手にしたのは小川糸「あつあつを召し上がれ」新潮文庫、「注文の多い料理小説集」文春文庫だった。

 文学は現実的なもの、強力な「実」の世界なのだ。文学を「虚」学とみるところに、大きなあやまりがある。科学、医学、経済学、法律学など、これまで実学と思われていたものが、実学として「あやしげな」ものになっていること、人間をくるわせるものになってきたことを思えば、文学の立場は見えてくるはずだ。

 文学とはこういうものだ、なんて大きなことは全くわからないけど、大切なものなんだということだけは実感している。

 

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