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子どもが生きる授業

正木(2007)は、授業で子どもたちが生きることについて次のように述べている。

子どもたちが対象に自分の意思で働きかけているとき、子どもたちは生きているととらえる。

正木孝昌(2007)「受動から能動へ 算数科二段階授業をもとめて」東洋館出版社

私は研究大会や校内研で授業を見るとき「子どもたちの目が曇っている」と表現することがあります。
上記で述べてあるような状態と対極にある状態と捉えることができると思います。

・教師が一方的にさせる授業

・子どもが問いを持つことができない授業

・子どもの学びの文脈を無視したとき

このような授業で「子どもたちの目が曇っている」のをよく見かけます。
こうなってしまうと授業者も子どもたちも楽しくないのではないでしょうか?
それに気づいているならまだしも、気づいていないのであれば大問題だと思います。
学び続ける教師が求められているのも、こういったことがあるからなのかもしれません。
自分自身をアップデートすることなく、教職を続けられると考えているのが甘いような気もしますが・・

さて、各学校で学力調査対策のプリントを解く時間が設定されていることがよくあるかと思います。
子どもたちの様子を見ていると、手が止まってしまっているのをよく目にします。
どうしていいか分からない、自分で働きかけることができないのです。
普段の授業が教師主導であれば、まず自分で働きかけることはできないのではないでしょうか?
働きかけることができるのは、賢い一部の子になるのではないかと思います。
やはり、普段の授業で子ども自身が働きかけることができるようにしたいものです。


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