小説 殺意(後半)
「あら、奈緒ちゃん、どうしたの?」
気配に気づいたのか、洋子はしゃがんだまま振り返り、奈緒が手に持つ果物ナイフに目を留めた。
「やだ、奈緒ちゃん、持ってきちゃ危ないわよ。リンゴ足りなかった?呼んでくれたらいいのに」
洋子はどこまでも無邪気で、鈍感で、娘の本意に、ましてや殺意など気づくはずもない。
その顔をみて、奈緒はどうにもならなく、目にジワジワ熱い涙が溜まってきた。震えた声で言う。
「…ごめん、私…もう無理だ、ごめん」
・ー・ー・ー・ー・ー
もう母とは暮らせない。俊哉さんに相談しよう。まだ付き合っている訳でもないけど、今度こそうまくいく気がする、母さえいなければ。潰される前に、彼に飛び込むしかないんだ。
奈緒はその思いで、俊哉が住むマンションに小走りで来た。白いニットのワンピースのまま、スニーカーを履いて。
「ど、どうしたの?どうしてここが…?」
俊哉が驚いた顔で奈緒を見る。奈緒は、白いシャツに黒のハーフパンツと、さっきまでとは違う姿の俊哉に一瞬、目を奪われた。シャワーを浴びていたのだろうか、髪が濡れ、首に巻いたタオルに雫が落ちる。
「前に教えてくれたじゃない、2丁目にできた1番新しいマンションの2階だって」
「そ、そうだっけ…、でも連絡くれれば…」
「ごめん、私、それどころじゃなくて。相談があるの、上がってもいい?」
答えを待たずにスニーカーを脱ごうとしたその時、奈緒の目に、見覚えのあるパンプスが目に入った。
昼間、落とした書類を拾おうとした時にも見たはずだ、履いていたのはー。
「由美、何でここに?」
顔をあげると、廊下の奥に由美が立っている。オーバーサイズの白いシャツに、ハーフパンツ。奈緒は、それが誰のものなのか、すぐにわかった。
「ごめん、奈緒。本当は話したかったんだけど、仕事関係の人には言わない方がいいかなって」
俊哉の隣に並び、その小さな口を開く。すがるような目で、奈緒を見る。
「…俊哉さんは、由美と付き合っているのに、私に声をかけたの?」
「え?」
奈緒が唇を震わせながら聞くと、俊哉は明らかに困惑した顔を向けた。
「それは違うでしょ。奈緒が、お願いだから2人で会いたいって頼んだんでしょう?俊哉から聞いたよ。課長経由で入った子を無下にできないって」
由美が奈緒をなだめるように言う。
「それと、さっきお母さんから電話があって。少し変じゃない?奈緒のお母さん。あ、お母さんも、か」
「母と一緒にしないで!!」
その一言に、奈緒は堪らえていた怒りを爆発させた。
「と、とりあえず、ここ玄関だから、あんまり大声だと隣、聞こえるからさ…」
更に困惑した顔で、弱々しく会話を遮る俊哉に
「やっぱり上がらせてもらう」
奈緒はそう強く言って、スニーカーを脱ぎ、2人の間を割ってフローリングに足を踏み入れた。
ズカズカとキッチンに行き、流しの下の扉を開く。やっぱりあった。
「ちょっ、やだ、なにするの?」
由美の言葉も聞かず、奈緒は包丁の刃先を自分の腹に向けた。
「私ね、さっき母を殺そうとしたの。でもだめだった。それなら私が死ぬしかないんだよ。だってそうでしょ?誰かを好きになっても、潰しにくるし、こんなんじゃ結婚なんて無理。家を出たくても、同じ市役所で働いているのに、私はあんた達と違ってアルバイト、今から就職なんてできないんだよ」
「そんなことないって、ね、落ち着いて」
由美が必死の形相で言う。
「そ、そうだよ、大丈夫だよ、まだ若いんだし」
俊哉も続けて制しに入るが
「若いから大丈夫?その言葉は何の慰めにもならないから!」
怒鳴るような声とは裏腹に、ナイフを持つ奈緒の手は震えている。
「奈緒ちゃん!」
その時、洋子が奈緒の目の前に現れた。
「ごめんなさい。うちの子、ちょっと変なのよ。思い込みが激しくて。ご迷惑おかけしました」
2人に向かい、申し訳なさそうに頭を下げる。
「何いってるの?変なのは、お母さんでしょ!」
怒り収まらず叫ぶも
「奈緒ちゃん、包丁を置きなさい。下でお父さんが待っているわよ」
洋子は静かに、諭すように奈緒が一番恐れる人物を口にしてきた。それを耳にした奈緒の動きが、心が、一瞬止まった。包丁を持つ手の力が抜け「カシャン」と小さく、ナイフが床に落ちる音がきこえる。
「ごめんなさいね。じゃあまた」
2人にまた頭を下げると、立ち尽くす奈緒の手を引っ張り、洋子は部屋を出ていった。
窓の方から車のエンジン音がする。少しづつ音は遠ざかり、やがて何も聞こえなくなった。
・ー・ー・ー・ー・ー
「…何か、やばかったね、色々」
先程から由美と俊哉は、壁際に座りこんだまま、放心状態で動くことができない。
「奈緒、母子家庭って聞いてたけど、お父さんいたんだね…」
由美の独り言ともとれる言葉だが、あまりの虚脱感に、俊哉は返事をすることもできなかった。正直、奈緒に好かれて悪い気はしなかったし、会うのを多少なりとも楽しみにしていたが、もう関わらないほうがいい、課長の知り合いとはいえ、どのみちアルバイト、正規の職員と違って、いつかはいなくなる。そのような考えがぼんやり浮かぶ。
「あ、そういえば」
そう言って、由美が思い出したように立ち上がると、トートバックから大きなタッパーを取り出し、テーブルに置いた。
「おでん、持ってきたんだ。この間、おいしいって言ってくれたでしょ。また作ってきたから、一緒に食べよ」
「…ああ、うん」
我に返ったような俊哉の前で、由美はタッパーを開けた。少しの湯気と、醤油の匂いが漂う。恐怖から開放された俊哉の、ほっとしたような顔を見ると、由美は得も言えぬ満ち足りた気持ちになり、笑いたくなった。これで俊哉の心を掴めたと。
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