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生きているフリをしている

安心な僕らは旅に出ようぜ
思い切り泣いたり笑ったりしようぜ

くるり「ばらの花」

 この曲が好きなのだけれど、不安障害を持つ身としては安心じゃない僕らは旅に出れないのかと思う。でも、旅に出ること自体が不安なのだから、一種の状態を指す言葉としての「安心」ではなくて、語感としての「安心」だと思う。だって「僕ら」に「安心な」と付けるとしっくりくる。歌のせいもある。


 生きているフリをしている。フリというのは動作であって行為であって演技である。生きている演技をしている。
 生きている演技とは、他者と同じフリをすることだ。他者と同じような情動を動かすために同じようなことをする。生きることは、他者を真似ることだ。その方が不安は少ない。リスクもない。疑問を持たず、同調圧力という名のレールの上を競争するように走る。それはやがて、演技ではなく、本当の自身として確立されていくのが、所謂大人になるということだ。

 けれどもいつしか、真似することに疲れてしまう人間が現れる。そう、僕などの一般的には変な人、生きているフリをしていれば、いつか生きることができると信じていたのに、その「生きること」ができなくなってしまった人達だ。その人達は永遠に、生きるフリをするしかない。生きることはできない。けれども真似だけは非常に上手くなっていく。けれどもそれは、対人関係の中に過ぎない。孤立した個人のなかでは「somewhere not here」な人生が続いていく。本当の私はどこにいるのか、ここにいるのか、それともいないのか。そもそも本当の私というものはあるのか。私は何者で、或いは何者かに成れる可能性があるのか。こう考えて人間が迷子になり、人生は安心できない旅そのものになっていく。
 
 旅は安心じゃないから、僕らは安心にならないといけない。僕は不安障害だけれど。


理解も納得もするわけなくて
それを言葉にもできなくて
だましだまし歩いてはいるけど
汽車は僕の頭上空高く走っていく
どこへ行くのかな

Galileo Galilei「僕から君へ」

 この曲が好きで15歳くらいの時からリピートしている。「理解も納得もするわけなくて」というフレーズが好きだ。理解も納得もしていない。吉野弘の「I was born」のように納得したわけでも、エミール・シオランの『生誕の災厄』のように理解もできていない。ただ、言葉に出来なくて、だましだまし歩いているけれど、汽車は他人を乗せて過ぎ去っていく。僕らを置いて。

 生というものが苦しい理由を求めると、「ロマンスがないから」という良く分からない理由に行きつく。僕にはロマンスがない。海に飛び込む衝動も、首を吊る欲求も、裸足でバドミントンすることもままならない。会話ですら、重要な会話を覚えることはない。できればロマンスのある方へ、ある方へと進みたい。人生が劇的なものでないと許せない自分がいる。

 だから苦しいのかもしれない。人生を劇的にロマンスにする方法は、自傷をするか自殺をするかだ。僕は生の苦しみを選ぶことで、人生を劇的にする方法を探しているのかもしれない。


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