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天才研究の盲点(補):天才のいう事が必ずしも正しいとは限らない。

 エジソンの有名な言葉「99%の努力と1%のひらめき」。これはよく努力の占める割合の大きさから努力の重要性を説く言葉だという話が挙がる一方、昨今では「ざーんねーーんでーしたーwwwエジソンはそんなつもりで言ってませーんwww 99%の努力も1%のひらめきが無ければ無意味って意図ですぅwww」とドヤる話も良く見かけるようになった。いやあ、これ本当すごくどうでもいい。
 なんでどうでもいいかと言うと、エジソンの真意が前者になろうと後者になろうと大したこと問題にならないからだ。前者ならその通りに受け取って誰も困ることはない。そして昨今になって言われる後者の意図は、そもそもエジソンがそう思っていたとしても、科学的にはエジソンの方が間違っていることになるだけだ。つまり99%の努力は1%のひらめきが無ければ意味がないというのは、それ自体が間違いで、それをエジソンが言おうがアインシュタインが言おうが間違いなのでどうでもいいということだ。

 失敗経験や試行錯誤という努力が無駄ではないことは、創造性や熟達化を扱う認知科学者なら了解することである。熟達研究というのは、ある分野において長期にわたる修練を積み、高いレベルの技能を獲得し、高いパフォーマンスを発揮してきた人物を扱うものだ。前回も天才研究と熟達研究の混同について少し言及したが、熟達研究はその技能の洗練っぷりを定量的に分析したり、その域に達するまでに積み上げてきた修練に注目したり、その域に達する上での必要な修練の仕方に注目したりなど、その視点も様々に展開されている。実際にハイパフォーマンスを示すアスリートやプロ選手、プロ棋士、芸術家などを対象にした研究もあれば、初心者に長期の作業を課してその洗練過程を追っていくような研究もある。こうした研究では、初心者と熟達者の目の付け所の違いを眼球運動から分析する研究もよく見られる(筆者の知るものだけでも、将棋、囲碁、野球(バッターからみたピッチャーの投球フォーム)、絵画、歴史資料(土器)、物理学の問題の見方などを比較した研究があることは確認ずみだ(ちょっと多すぎるのでリンクは省く)。

 こうした眼球運動の研究では、熟達者と初心者では目の付け所が以下に違うかがまさに目で見て分かる形で示される。将棋や囲碁のようにより適切な一手を選び抜くタイプの知的作業や、野球の投球フォームの見極めのような刹那の時間での判断を要する場面においては、熟達者ほど注目する場所が絞られる。見なくていい特徴に気を取られず、必要な情報に集中して判断を下す。逆に初心者はポイントが絞れず目が泳ぐわけだ。こうした注目の仕方の洗練はあまり自覚的には行われず、修練の結果として自然とそうなった、という場合が多い。経験を積んで「よく見なくてもよかったもの」を知り、見るべきものが残り、鑑識眼となる。野球の投球フォームの判別などは、あらかじめコツとして教えることもできるかもしれないが、将棋や囲碁の盤面の見どころは、実際に将棋や囲碁のルールや定石の知識を足場にして初めて注目点の意義が分かる。素人に名対局の盤面のここが見どころなんだよと明示的に伝えたところで、実際に将棋を打ったことのない人間には知識と結びつかないので何とも響かない。そういう意味では先に挙げた野球の投球フォームもそういう部分がないとも言えない(フォームのきれいさなどは、プレイ経験のない人にとっては実感しにくい)。
 少し熟達研究に寄りすぎたので本題の創造性に戻ろう。同じように、創造的問題解決の研究でも目の付け所についての研究がある。寺井ら(2005)はひらめきを伴って解決に至りやすい法則性発見問題(寺井らはスロットマシン課題と名付けている)を用意し、この問題を解く際の目の動きを測定、分析した。このスロットマシン課題では、パソコンの画面に3つの窓枠が表示され、左枠、中央枠にそれぞれ1桁の数字が表示される。残る右枠の数字が、ある法則に則って表れるので、その法則を暴き、右枠の数値を的中させることが求められる。また、この課題は繰り返し多数出題され、失敗を繰り返しても良いが、その試行錯誤の中で正しい法則性を見出す。すでに出題された問題と答えのログが画面の下に表示されており、それらも手がかりとして利用することができるようになっている。

寺井・三輪・古賀(2005)で用いた実験課題

 この問題はトリッキーな問題で、序盤の問題では2つの法則性が同時に成り立つように作られている。1つは「左枠の数字と中央枠の数字の合計が右枠の数字になる」という法則性だが、これは参加者をひっかけるダミーの法則性だ。中盤になるとこの法則性が成立しない問題が出題される。真の法則性が別にあり、「直前の答えに3を足したものの1桁目が答え」というものである。多くの参加者は最初はダミーの法則性に気を取られ、スロットマシンの3枠を確認すべく水平方向に視線を動かす。そして中盤に入ってその法則性が崩れ、真の法則性を探すべく悩みだすが、やがて正しい法則性をひら めいて発見する。

 寺井らはこの時の眼球運動から、答えをひらめいた反応(「あ!」という感嘆、いわゆるアハ体験のリアクションと正しい法則への言及)よりも先に、眼球運動が正解に直結する方向へと変わることを明らかにした。正解に気づくよりも少し前に、視線はそれまで一見無関係だと思われていた出題済み問題の答えのログの方向に動き出していた。失敗を積み重ねることで、本人も気づかないうちにまるで熟達者のように目の付け所自体が変わり始めていた。そうして自覚なく変わった着眼点をきっかけに正解に気づく、ということが起きていたということになる。

 この研究は創造性に関する認知科学の研究者の間では、ひらめきが無意識的、潜在的処理にも支えられていることを示す重要論文としてよく引用されている。これに限らず、人は意識的に物事を判断するより先に、無意識、潜在的に行動の決定が進んでいることを示す知見は多く提出されており、ひらめきにおいてもそうしたプロセスが起きているのだろうという主張は認知科学では了解された見解になっている。こうした潜在処理の研究については、その道の巨人、下條信輔先生の書籍などが分かりやすい。

サブリミナルマインドは読みやすい新書の名著だが、さすがにかなり昔の書籍となる。さらに高度かつ先端の研究を知りたい場合はベンジャミン・リベットの「マインドタイム」が必読。

 そんなわけで、「99%の努力と1%のひらめき」に戻るが、1%のひらめきが無ければ99%の努力は無駄かというと全然そんなことはないのである。無駄だと思えた試行錯誤も、着眼点の変化など、何らかの変化につながっている。無駄に思えるのはそれが潜在的かつ微小な変化として進んでいて自覚できないからだ。そしてそうした潜在的な変化をきっかけにヒントや答えに無自覚に接近していたことを自覚する(あ、自分答えの目前にいるじゃん!という自分の状態の気づき)、これがアハ体験の正体だとされている。無駄どころか、ほとんどの場合、試行錯誤に支えられて無自覚にひらめく準備を整えているのである。エジソンの言葉の真意・真偽は分からないが、「努力は無駄」ってことはないし、偉人が言ったからって正しいとは限らない。名選手が名コーチになるとは限らないし、ヒーローインタビューが常に正しいとは限らないんだぜ。

#ただし、「練習は嘘をつかないって言葉があるけど、頭を使って練習しないと普通に嘘をつく(ダルビッシュ有の言葉)」という言葉もあり、それはそれで適切な指摘でもある。これについてはまた別の記事で。










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