声なき声を聞けるか!?
大切なのは「どう伝えるか」より「どうしたら伝わるか」を自問せよ(^^;
仕事でもプライベートでも、一般に、コミュニケーションにおいては、ロジカルであることや、よどみなく話すことが大切だと思われがちですが、それは本質的ではありません。
エモーショナルだろうが、とつとつとした語り口だろうが、何だろうが、目的が達成できればいいんですよね。
むしろ心がけるべきことは、目の前の相手をよく観察してあげて、自分の話がどの程度理解されているのかを、話しながら正しく評価・分析することだと思います。
そうしながら、いろいろなところにボールを投げて、その反応を見て興味や関心のあるところを探り、そこから話を展開すると、うまくいく確率は確実に高くなります。
これは、1対1の場合だけでなく、大勢の人の前で話すときも同じです。
ただ、相手が目の前にいない場合。
例えば、メール等の場合においては、特に、ある意味において、声なき声である文章等のコンテクスト(「背景」「文脈」「状況」)を読み解かないといけないので、情報量が少ないことも重なって難易度が格段に高くなります(^^;
何故、その言葉を選んだのか?
何故、その表現でなければいけないのか?
文章の結束性(文法的結束性・語彙的結束性)は?
書かれていないことは何か?
等々。
この様に、意図的に書かれた「文」や「書」を、実際に読み解くには困難が伴うことを理解した上で読むことを心がけています。
つまり、私達のコミュニケーションの環境は、常に、劣悪な環境下にあることを認識して、自らが発信する際には、「相手にどう伝わったか」が全てだ!と思い。
できるだけ簡潔にわかりやすく伝える努力は惜しまない様にしたいと考えています。
ただ、それでも、伝わらないことは多分にあります^^;
特に、理屈と現象にばかり捕われている時には、一番難しいことではないでしょうか?
言った言わないで喧嘩になることがあります(^^;
証拠があったとしても喧嘩が収まる訳じゃない。
言った言葉の裏に本当の意味が隠れているから。
それを読みとってやるまで収まらない。
何を言ったか。
どう行動したのか。
その言葉や行動という現象だけでは、聞こえてこないもの。
見えていないものがありますよね。
例えば、その言葉や行動に、特別な意味が無いって事も、たくさん有る筈。
相手に確認もしないで、勝手に、その言葉や行動に意味づけをしても、何も解決しません。
暖簾にキャッチボールしていた様なコミュニケーションとなっていなかったか?の振り返りが大切だと思います。
また、解らないことがあると、すぐ「何で?」と聞く人がいます。
すぐ、「私にはわからないわ」という人がいます。
人に説明の努力をさせたり、わかろうとする努力を投げてしまう前に、声なき声を聞くことが大切なんですよね(^^)
これは、禅の言葉にある「隻手音声(せきしゅのおんじょう) 」のことを言っています。
隻手の音声というのは、江戸時代の白隠禅師がつくった禅の問題で、私たちが左右の手を合わせるとパチンと音がする。
両手の音ですね。
では片手ならどうか?
片手の音を聞いて来いという問題です。
『水滸伝』という小説の中に「単絲線を成さず、隻手音声を成さず。」とあるのですが。
糸は、二本を合わせてこそより丈夫になる。
両手がそろってこそ音が出るのだ、という意味だそうです。
片方だけでは役に立たないということですが。
じつは、それこそが素晴らしいのだという発想で、価値の無いものこそ優れていると主張したいのでしょうね。
そのあたりから着想を得て作られた問題かもしれません。
右手と左手という相対の世界。
相対と絶対といいます。
私達は、相対の世界に生きています。
対を相にしている世界なのです。
その世界から対を絶した世界を見なくてはいけないのです。
絶対の世界とは対を絶った世界なんですよ(^^)
ところが相対の世界では、二つに分けないと理解し合えないから、言葉や文法の奴隷となってしまうんですね。
本来の世界は分けられないのに。
だから、この禅の言葉は、左右の両手の世界から片手の世界に入りなさいということが言いたいんだと理解してみることで、見える世界が変わってきます。
つまり、片手の世界が本当にわかったら、現実の相対の世界の真の姿が見えます。
左右の手をパチンと合わせると音がする。
これは現実の世界です。
音を出す以前の音は片手の中にある。
この聞こえない音を聞いて初めて聞こえる音がわかるのです。
実際は、言うは易く行なうは難しなんだけど、ね(^^;
ただ、聞く方法はいくらでも有ります。
例えば、この短歌も、前述の聞こえない音を聞くときの参考になると思います。
「わたしたち/わたしたち/わたしたち/わたしたち/わたしたち/わたしたち /わたし」今橋愛「短歌WAVE」創刊号(2002年)(*改行を/で示す)
ことばのメッセージは明快。
「わたし」とは何か、を問いかけています。
あれこれ説明せずに。
「わたしたち」「わたし」の対比でそれを示しています。
意味はむずかしくありません。
この曲の歌詞の様に、ライト・ヴァース的な感じがします。
Aimer「蝶々結び」
前述の短歌と楽曲から教えられること。
数えきれない人の中から出会った二人がいます。
それは恋人だけでなく、友人も仕事の同僚も、学校の恩師や、家族すら沢山の偶然と必然が重なり巡り合えた「相手」なのではないでしょうか?
この曲の歌詞の様に、「たぐり寄せ合った」「結んだんだ」という表現から、人と人の出会いは、受け身ではなく、能動的な事だと思います。
身の回りにいる人達は、自分が選び。
また、自分は相手から選ばれたのだと考えると、日々の人間関係が、もっと愛おしく感じられると思います。
二人で「せーの!」と、作った蝶々結びという人間関係を、二人の中で心地よい大きさに作り上げ、大切に持ち続けてあげてくださいね(^^)
どの関係にも「運命の糸は自分で選ぶ」という強い意志があるかどうか。
まずは、そこからスタートしても良いと思うんだけど、ね(^^)
そのためにも、自分や相手の声なき声を聞いてあげること。
それは。
距離をおくのではなく。
目をつぶるのでもなく。
かといって過剰に入り込むのでもない。
傍観でも没頭でもない。
みずからの思いに閉じこもるのでも。
自らのあり方をひらききるのでもない。
かろやかな能動性を持って。
複雑で脆く。
それでも愛おしい人間関係を築いていけたら素敵ですね(^^)
そのためにも。
体を調えて。
呼吸を調えて。
心を調えて。
繰り返すけど、そんな声なき声を聞いあげてみて下さいね(^^)
★STAR GUiTAR 「Live feat. Hidetake Takayama」
You must accept yourself and others if you really want to live.(本当に生きたいなら、あなた自身と他人を受け入れなければならない。)
【おまけ】
何の駆け引きもなく、相手との関係を持続させるために必要な要素のひとつが「理解力」であり、人と人との間に何を育むかってことは、とても悩ましい問題ですね^^;
この「理解力」に関して池田晶子氏は、こんな事を語っていました。
とても耳が痛い^^;
・・・
ところで、「わかろう」という意志、これは何か。
言うまでもない、優しさである。
わからないものをわかろう、自分ではない他人をわかろう、この想像的努力のまたの名は、ほかでもない、愛である。
愛のない人にはわからない、愛のない人が、わかっている以上のことをわかることは有り得ない。
わかる気のない人に、なぜわかるわけがあるか。
愛していないものを、なぜわかる気になれるか。
齢をとらなきゃわからないとか、君は何にもわかってないといった、自らする線引きの非論理性と狡さとを私は憎んだ。
それで、どうしてほしいのよ。
なら、世の中の皆が皆、君は私でないからわからないと言い合ってごらん。
わかる力は愛である。
えてして人は気づいていない、真の知力とは、愛する力であることを。
「自分のモノサシ」で他人も世界も計れるならば、この世で分からないことはもっと少ないはず。
分かったつもりは、分かっていない証拠。
「知の無知」というか、一知半解は、自惚れの産物であり、相手を傷つける刃にもなり得ます。
分からないことを、分からないと認める謙虚さ、分からないことを、分かろうと努力すること、「無知の知」こそが、学問の出発点であり、優しさの原点です。
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