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≪時≫

「過去を追うな、未来を願うな。

過去は過ぎ去ったものであり、未来はいまだ到っていない。

現在の状況をそれぞれによく観察し、明らかに見よ。

今なすべきことを努力してなせ。」

『中部経典』に出てくる言葉です。

今というものは、無限の過去と無限の未来をはらんでいるものでしょうか?

長寿百歳が尊きにあらず。

今を永遠に生きることが肝要なのか?

過去に執着し、未来に夢を追うばかりで、肝心の「今」が抜けている生活は虚しい遊戯に過ぎません。

いつでも「今」のみが存在するのですから、過去や未来も、今、今、今と自覚される時間においてのみ意味を持つのだと思います(^^)

さらには、現代における課題という観点から行動を起こすことも重要です。

自然とともに暮らしていた時代と現代では、全くと言ってよい程異なる課題を私たちは抱えています。

百年前、千年前なら「可」であっても、現代では「不可」となっている教えは数多くあります。

巨大な文明を持ったために人間自身で判断しなくてはならない問題も抱えています。

死の判定や遺伝子操作、生態系の破壊や核拡散の問題などは、現代人は避けては通れません。

そうした「今」に立って物を考え行動しなければならないでしょうねぇ(^^)

また、時間の超越という体験も、特定の奇跡的な時間をいうのではなく、〝有限の本来性が無限である〟と自覚されることにより時間の超越が適うのでしょうね。

「生死を超える」ということも、生死の外に解決を見出すのではなく、二度と再び生まれて来ぬこの有限の人生を〝絶対の時間〟として生き切ることにあると思います。

だって、もう二度と始まることはありませんよ!

あなたの人生がいずれ終わることを恐れてはいけない。

二度と始まらないことを恐れないと(^^)

今生きている人は、あと一回死ねますが、もう二度と生まれてくることはありません。

既に生まれ、二度と始まらない人生を今、生きています。

だったら、この「今」とは、一体どのくらいの時間を指すんでしょうねぇ。

一瞬でしょうか?

数秒でしょうか?

数分でしょうか?

一日でしょうか?

それとも一生でしょうか?

いったい、「今」をどのように歩めば尊い内容と成るのか?

時が来て時が去る
吸う息吐く息今の時
私を包む悠久の時
今の時があればこそ
私に満ちた永遠の時
時と共に時を歩まん

時にまかせて時にひたる
決してあせらず時のままに
時を追わず時を悔やまず

時そのものになりきって
時が一人で歩む時
すべての時は堂々と歩む

このように、考えることができればいいのだろうけど、なかなかどうして簡単には、出来ませんよね^^;

そう、「今」の基本的な時間は「吸う息、吐く息」と言えるのかも。

これは自分の命の時間を「吸う息、吐く息」と覚悟することでもあります。

そうすれば、過去も未来も思い煩うものではなくなり、「今」を生きる姿勢となって報いてくれるはずですから(^^)

息を命とする思想は古来日本の生命観にも類似がみられるそうです。

「いのち」とは「息の道」あるいは「息の内」という言葉から来ているとの説を以前、聞いたことがありますが、これは行動面でいえば「一歩、一歩」が「今」に相当するのでしょうね(^^)

時間が意味を持つのは「行動」や「生命活動」の業を伴う場合のみなのです。

石や木には過去も未来もないんです。

この「吸う息、吐く息」とした基本的な「今」は、客観的な時間としては大いに伸縮が見られます。

集中していれば、「今」が数分から数十分に伸びることもあります。

「一念」とか「一発意」「一食」がそれで、「一念」や「一発意」は精神的な時間、「一食」は生活的な時間がからみます。

人類全体とか歴史観などの大きな問題を念じていれば、「今」はかなりの時間の集中を要しますので「吸う息、吐く息」に留まってはいませんよね!

つまり充実している時の「今」は、その当座は時間の観念が無くなるのです。

そして同時に、後から思い返せば、実に色取り取りの内容が凝縮されていたことが解ります(^^)

ここで、「芸術は爆発だ」「グラスの底に顔があっても良いじゃないか」などの名言を残した岡本太郎さんの言葉を紹介したいと思います。

「変な言い方をするが、人間があまりにも人間的であるために、記憶によるさまざまな判断がまつわってくる。

そして悔いたり、悲しんだり、またウヌボレたり、くじける。

逞しい人間は過去にわずらわされない。

不幸な人間ほど、大きな、あるいは些細な悔いの群れがいつまでも残り、くっついて来て、それがだんだん拡大されてくる。

ついには被虐的に、それにしがみつき、現在しなければならないことを放っぽらかして、ひたすら悔やんでいる。

しかしいま言ったように、忘れることが人間のふくらみだ。

自分自身をのりこえるというのは、実は己れ自身を忘れることだ。

また言いかえれば、自分を忘れることによって、自分自身になりきる。」

仏教で論じる時間の最小単位は「刹那」といい、一説には75分の1秒という時間を当てますが、一瞬で価値が決るような体験をした者は、この刹那の時間を自覚することができたんでしょうね。

そしてこの刹那の時間を重要視し〝一瞬にこそ永遠の時間が宿る〟と説く思想は、例えばギリシャ彫刻で〝円盤や槍を投げる瞬間の姿に永遠を見る〟という美意識にも代表されるように、人類の歴史の中でも多々語られている内容なのです。

動画より一枚の写真の方が全体を雄弁に語っている、ということは皆経験的に知っていることだと思います。

ただし、「一瞬の今」と言えども0秒ではないことは知らねばなりません。

意識上の事実としての現在には、いくらかの時間的継続がなければならぬことは自明の理です。

この体験的事実を忘れ、いたずらに机上の空論に執われ、生活を離れた境地に安住する愚は避けるべきでしょう。

無限の過去と無限の未来をはらんでいる「今」に立った上で、いよいよ〝今をどういう時間にするか〟を問うていきたいものです(^^)

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