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【身辺雑記】日記の意外な効用

今年も、残り、半年となりました。

日々の雑務に忙殺されてあっというまに一年が過ぎ、年初に立てた目標をかなえられなかったというのはよくあるパターンかな?

残り半年を迎えて「来年こそは!」と、決意を新たにした人は、意外と少ないかもしれません。

その決意を実現するために、意外と効果のある日記を活用しては如何でしょうか?

では、なぜ「書く」行為が効果的なのか?

その大きな効果としてカタルシス効果があります。

古代ギリシャの医学では、病的な体液をカラダの外へ排出することをカタルシスと呼び、精神分析の世界では、無意識の層に押し込まれているココロのしこりを外部に明らかにすることで症状を軽減、あるいは消失する治療法のことをいいます。

つまり、書くことで、ココロの中に閉じ込められたイライラやモヤモヤなどのネガティブな感情が浄化されて、気分がすっきりするんだそうです。

他人に愚痴を言うだけで、気分がすっきりするのもこのカタルシス効果によるものです。

例えば、サラリーマンが一杯飲み屋で会社の不平不満を言い合ったりするのは、ココロのしこりを吐き出すために非常に重要で、メンタルヘルス対策の一貫として、「愚痴友の会」を結成するのもいいかもしれません。

ただし、愚痴は相手の反応によって「あぁぁぁ~話さなければよかった」と後悔するリスクが存在し、ときには、告げ口などされて思わぬ事態を招いてしまうので、話す相手を見極めないといけないから、おちおち愚痴も言えませんよね。

だからこそ、書くことは自分だけの行為なので、このリスクがないぶん思う存分吐き出せるんだけど、SNSに書くときは、前述の通り思わぬ反応があるので注意しなといけません。

ある実験によれば、書いているうちにココロが暖かくなり、動揺がおさまったことも認められているそうです。

ここで、精神の浄化作用としてのカタルシスについて、少し詳しく説明します。

生理的な用語であったカタルシスを、精神に適用したのはアリストテレスが初めてでした。

彼の著書である「詩学」の中で述べられています。

これはギリシャ悲劇の解釈のひとつとして用いられたもので、カタルシスは悲劇を見ることによってなされます。

アリストテレスがギリシャ悲劇を観客が好むのは、悲劇をみることで自分の心が浄化される(カタルシスされる)からだと説明して以来、観客が演劇をみる中で主人公に自分を重ねあわせ、主人公のその心情の動きを自分のこととして一喜一憂することが、なんらかの浄化(カタルシス)作用をもつという意味でもちいられるようになったそうです。

悲劇の効果は、観客が恐怖と同情(共苦:主人公の苦悩をともに体験すること)を感じることによって最後にはこれらの激情から解放されることであり、この働きが浄化作用(カタルシス)とよばれました。

悲劇で描かれるモチーフや登場人物の悲しみや苦悩に共感することで、心の奥底の感情が揺さぶられたり涙を流したりし、その結果開放感が得られ、癒されることをカタルシスと呼んだようです。

それは楽観的な思考(明るく・楽しく)では到達できない地点であり、「物語中の悲しみや苦悩への共感」が浄化作用を呼び起こします。

しかし今日、カタルシスというと、心理治療のひとつの形を意味します。

無意識の内に抑圧されている、過去の苦痛で屈辱的な、あるいは恐怖や罪悪感をともなう体験やその表象を、主体が想起しそれを言語化するときに、その体験や表象にまつわりついている感情や葛藤がその言語表現とともに表出され、それによって「たまっていたものが排出」され、心の緊張がほぐれるようになるんだそうです。

これの発端は、フロイトの初期の共同研究者であったJ.ブロイアーの患者が、催眠状態の中で無意識の中に鬱積していた気持ちを思う存分にかたると、催眠からさめた後にそのヒステリー症状が軽くなり、これを患者自身が「煙突掃除」とよんだことによっています。

たとえば催眠法を用いて無意識下に抑圧されたものを開放し、そうすることで治癒に繋がるのがカタルシス効果なんですね。

「心の奥底にあるものを出してすっきりする」ということです。

この場合、相手の話を非難せずに受容することが、不安や緊張を取り除くことに繋がり、話し手の感情の開放を促進できるので効果的です。

催眠や暗示とむすびついたこのカタルシスという治療技法は、精神分析学が催眠からはなれ、文字どおりの「精神分析」をおこなうようになってからは、精神分析の治療技法としては重視されなくなったそうです。

しかし、対話的場面の中でクライアントが過去の経験にまつわる心情をかたるということ自体に、なんらかのカタルシス作用があるはずであり、一般の心理面接や、種々の芸術療法、遊戯療法、自律訓練法、レクリエーション療法などでは、このカタルシス作用を利用しているんですよ。

心情を言語化して「表出」すること、誰かに話を聞いてもらうこと、もしくは何らかのアクションを起こして感情を表出することなど、鬱積した感情を開放することで癒されるのが、広い意味でのカタルシス効果になっているようです。

悲劇の鑑賞との違いは、基本的に対話をすることが癒しに繋がる点ですね。

でも、なぜ、見ていて悲しくつらい悲劇が求められるのか?

それは、自分の悲しみや苦悩が浄化(カタルシス)できるから、と言えそうです。

人々の悲しみが、物語(悲劇)として描かれた。

そしてそれに共感し、こころが浄化される人もいた。

そうやって悲劇は語り続かれてきたのだと思います。

おそらく悲しみや苦悩が深い人ほど、カタルシスを求めているのではないでしょうか?

悲しみが共有されることで癒されるということは、きっとそれは自分だけの悲しみではないと思わせてくれるからです。

自分の悲しみを見つめ、しっかりと自覚したり吐露することで、はじめて癒し(カタルシス)に繋がるのだとしたら。

無理に明るく振舞っても、根本的な解決にはならないということですね。

ネガティブなものを封じ込めようとせずに、自覚したり誰かに聞いてもらうことが、時には必要なのだと思います(^^)

その他の書くことの効果としては、まず、事態を整理する効果もありますよね。

モヤモヤしていた気持ちは、怒りだったのか?

不安だったのか?

恐れだったのか?

自分は、何に対して、そう感じていたのか?など、自分の感情を文字に変える過程で、人間は無意識に「外の目」を使っています。

「外の目」で、自己を捉えると、客観的に物事が判断でき、事態を整理できるんですよね。

その結果、「何をすべきか?」が明確になり、解決への糸口が発見できる効果が期待できるんですね。

そして、あとは振り返り効果かな(^^)

書いた内容を、後日改めて見ることで自分を再認識できます。

時間の流れと共に忘れかけていた真の気持ちを振り返ることは、本当に大切なことを思い出すための有効な手段ですね。

昔の自分を振り返ることが、次に進むための大切なトリガーになるんです。


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