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【備忘録】すぐに答えを出すことを求められがちな世の中だからこそ、なおさらネガティブ・ケイパビリティについて学んでみた。

みなさんは、ネガティブ・ケイパビリティという言葉をご存知ですか。

「詩人の手紙」(冨山房百科文庫)ジョン・キーツ(著)田村英之助(訳)

19世紀の英国の詩人ジョン・キーツが兄弟に宛てて書いた手紙に出てくる言葉です。

私たちは、性急な証明や理由を求めがちだけど、分からないことを分からないまま、宙ぶらりんの状態で受け入れ、耐え抜くために「事実や理由をせっかちに求めず、不確実さや不思議さ、懐疑の中にいられる能力」こそがネガティブ・ケイパビリティなんだそうです。

キーツは、シェイクスピアがネガティブ・ケイパビリティを有していたと書き記していました。

それを、精神分析の分野に持ち込んだのが、英国の精神分析医であるウィルフレッド・R・ビオンであり、精神分析医には「患者との間で起こる現象、言葉に対して、不可思議さ、神秘、疑念をそのまま持ち続け、性急な事実や理由を求めないという態度」が必要となると述べています。

つまり、精神分析学には、多くの知見があるため、精神分析医は、理論を患者に当てはめて、患者を理解しようとしがちであるが、ビオンは、そうした態度に警鐘を鳴らすために、ネガティブ・ケイパビリティという概念を提唱しました。

この概念は、私たちに、とても重要な示唆を与えてくれます。

【参考記事①】
曖昧で不安なコロナ時代を生き抜くための2つの思考法 アート・シンキング(※1)とネガティブ・ケイパビリティ

※1:
アート思考とは、芸術家が作品を通じて、自らが提案したい未来や、現代への問いを投げかけることと同じように、ビジネスマンも事業を通じて、自らが提案したい未来や、現代への問いを投げかける思考方法です。

作家で医師の帚木蓬生さんは、著書「ネガティブ・ケイパビリティ 答えの出ない事態に耐える力」の中で、ネガティブ・ケイパビリティとは、

①どうにも答えの出ない、どうにも対処しようのない事態に耐える能力。

②性急に証明や理由を求めずに、不確実さや不思議さ、懐疑の中にいることができる能力。

と述べており、哲学者、谷川嘉浩さんは、著書「スマホ時代の哲学 失われた孤独をめぐる冒険」の定義を借りると「結論づけず、モヤモヤした状態で留めておく能力」のことであると述べていました。

【参考図書】
「ネガティヴ・ケイパビリティで生きる ―答えを急がず立ち止まる力」谷川嘉浩/朱喜哲/杉谷和哉(著)

「答えを急がない勇気 ネガティブ・ケイパビリティのススメ枝廣淳子(著)

「スマホ時代の哲学 失われた孤独をめぐる冒険」谷川嘉浩(著)

「ネガティブ・ケイパビリティ 答えの出ない事態に耐える力」(朝日選書)帚木蓬生(著)

スマホ時代に生きる私たちは、とにかく明確な答えを求めがちです。

また、私たちは、一人で考えていると、注意しておかなければ、いとも簡単に考えたつもりになってしまいがちです(^^;

そのため、以下の様な状況に、知らず知らずの内に陥っていて、このネガティブ・ケイパビリティがどんどん衰弱しているように思えます。

①モヤモヤがあることが落ち着かず、ついスマホで答えを求めてしまう。

②結局答えなんか見つからず、スマホから離れられない。

③物事や経験の表層を撫でるだけしかできなくなり、深い思考がスマホによって妨げられているのではないか。

だから、もっとモヤモヤする時間を持って、且つ、モヤモヤに対峙する勇気を持つことが大切です。

現在、インターネットに常時接続するデジタル機器に囲まれた私たちは、メールやSNS等、さまざまなタスク(仕事)を、次々に処理しながら、他人の反応ばかり気に掛けるアテンションエコノミー(関心経済(※2))のただ中にいます。

※2:
アテンションエコノミーとは、情報過多の社会において人々の「関心や注目の獲得(アテンションの獲得)」が経済的価値を持ち、貨幣のように交換材として機能するという概念、状況のこと。
貨幣経済に対しての「関心経済」。
経済の発展とコンピューターの発達とともに情報過多社会が進み、加えてインターネットの普及により情報の流通量は爆発的に増加した。
情報は、無限かつ無料で得られるようになり、また、容易にコピーできるなど、情報そのものの価値は低下した。
一方で、有限である人間の脳処理や可処分時間の中、人々の関心や注目を獲得することが希少で価値を持つようになり、現代はその獲得争奪戦が起きている状況であるといえる。
1971年に、アメリカの経済学者ハーバート・サイモンが情報過多社会におけるアテンション獲得の重要性を提唱した。
その後、1997年にアメリカの社会学者マイケル・ゴールドハーバーが、情報爆発社会において仕事のみならず趣味やプライベートの情報もすべて混在してアテンション獲得がビジネスになり、物質的な経済からアテンションに基づく経済へ移行するとしてこの状況を「アテンションエコノミー」と名付けた。
後に、この概念は、2001年にトーマス・ダベンポートとジョン・ベックによって出版された書籍「アテンション!(Attention Economy)」によって普及した。(出典:シマウマ用語集)

「アテンション! 」トーマス・H・ダベンポート/ジョン・C・ベック(著)高梨智弘/岡田依里(訳)

この様な環境下においては、どんな対象に対しても、集中しない訓練をしているようなものです。

その様な環境下に置かれている事実を意識しておかないと、考える以前に、きちんと聞くことが取り戻せなくなってしまいます(^^;

哲学の営みは、それとは、逆に、他人の考えをインストールすることであり、その状態を改善するのに有効です。

但し、過去の哲学者の書いた書物は、ぱっと読んで面白いものではないし、日本語訳の難も加わり、訳が分からないところも多々あることから、一般受けしないのが実情です。

でも、私がすぐに理解する以上のものがあるはずだと期待して読んでいくと、自分の常識を更新するチャンスが開けて来ると考えています。

こう考える背景には、先人に学び、

①思考パターンのレパートリーを増やす

②経験値のバリエーションの幅を拡げる

ことで、対処可能な物事も多くなってくると考えていて、ここ最近の記事で、哲学関係を話題にしていることが多くなっています(^^)

【参考記事②】

【参考文献】

さて、現代の経済文化を特徴づけるものは、フレキシビリティ(柔軟性)です。

現代は、常に変化する状況で、いつまでも学び続け、変化に適応し、成長し続け、多様な仲間たちと協調して、成果を出していくことが必要とされています。

その中で問題に直面し、悩みを抱えた人はどうするのか。

その答えのひとつが自己啓発であり、私たちは、まず、社会に目を向けるのではなく、自己啓発により自分を成長させ、自分の内面に答えを見出そうとします。

つまり、

①自分が変われば世界が変わる

②自身の内なる声に従え

③ものの見方を変えろ

というアプローチです。

ただ、こうした流れには問題があって、内なる声の前では、他者の声は取るにならないものであると考えがちです。

自分の悩みは、自分自身の問題であり、自分にしか理解できないと閉鎖環境を構築しがちになり、よって、他者や周囲への関心の欠落につながっていきます。

加えて、自分の中にある葛藤や対立も押し殺されてしまいがちであり、自分の内面を掘り下げる結果、単純化した力強い欲求を求めてしまいます。

そして、上手くいかない場合は、自己責任または責任転嫁に至るケースも発生し、これって、とてもしんどい状況ですよね(^^;

このシンプルで力強さの裏には、弱音を吐いたり、疲れちゃったりすることは求められていない感じがします。

では、ため込まれたストレスはどこへ行くのでしょうか。

ため込まれたストレスを発散するにも、単純化した自己を崇拝するスマホは有効であり、SNSの「いいね」との相性が抜群です。

これは、自分の注意をばらばらに分散させるという、スマホ時代に選ばれやすいストレスコーピング(※3)です。

※3:
ストレスの基(ストレッサー)にうまく対処しようとすることを、ストレスコーピングといいます。
ストレッサーによって過剰なストレスが慢性的にかかると心身へのさまざまな悪影響が考えられるため、健康を維持するにはうまくストレスコーピングすることが必要になります。
ストレス解消する段階においては、大きくわけて、2つのストレスコーピングがあります。
ひとつは、「感情処理型ストレスコーピング」。
もうひとつは、「充電・活性化型ストレスコーピング」です。
感情処理型ストレスコーピングは、自分の気持ちを話し、他者に聴いてもらうことによって気持ちを発散させることで怒りや不安などの情動を低減する方法です。
「愚痴を聞いてもらってすっきりしました」といったことが代表的なものです。
充電・活性化型ストレスコーピングは、一般的にいわれるストレス解消行為にあたります。
ストレスの解消方法は様々ですが、エネルギーを充電して、活力の活性につながるような方法を日々取り入れリフレッシュすることが重要です。

スマホ等のデジタルデバイスが可能にするマルチタスキング(活動の並列処理)は、

①不安や退屈、ストレス等から目を逸らす

②興味を惹かれる対象を選ぶ

③私たちの注意を分散させる

④それに応じて多様な意味合い(感覚)をバラバラに分解し情報量を減らす

ことで、その中にボーッとした感じで浸る行為に一種の癒しがあるわけです。

そして、対象となる物事は、自分の理解が及ぶシンプルなものになり、スッキリした感覚になります。

そのスッキリ感が曲者です(^^;

それでは、気を逸らし、意識しないようにと、普段は、処理されている何か足りないという気分は、私たちに何を開示しているのでしょうか。

退屈という気分。

何か足りないという気分。

そのどちらも、結局、私たちが重要な何かに取り組んでいないということを示唆していると考えられます。

また、この何かが足りないという気分は、モヤモヤ・消化しきれなさ・難しさ・かみ砕きにくさに取り組んでいないことからくる不安にほかなりません。

その一方で、モヤモヤ・消化しきれなさ・難しさ・かみ砕きにくさと共にある経験が不足しているのだと考えられます。

ではどうすればいいのか?

その鍵が、この時代で失われた「孤立」と「孤独」を取り戻すことだと谷川嘉浩さんは述べています。

「孤立」とは、他者から切り離されて何かに集中している状態であり、消化しきれない記憶、モヤモヤした気分等を、安易な説明をつけずに付き合った経験が優しさにつながるのではないかと考えられます。

また、「孤独」は、自分自身との対話を行っている状態であり、すぐにスマホで接続してしまうのではなく、孤独を経由してこそ適切なつながりが可能になるのではないかと考えられます。

そして、この「孤立」と「孤独」を取り戻すために谷川嘉浩さんは、趣味をすすめられています。

なるほどなって思ったのは、谷川嘉浩さんは、要約を書くことも推奨していませんでした(@@)

その理由としては、要約自体がスッキリと分かりやすくまとめられたものであり、要約を読むだけでは知識は知ることができても、知識と知識をつなげ、知識の使いどころを読み取る読書の経験の代わりにはならないと指摘しています。

つまり、分かった気になってしまうことが、孤独を失わせてしまう原因でもあるので、この点については、今後も注意していきたいと考えています。

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