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【日常茶飯事】お出かけが楽しい季節♪

すーちゃん撮影

出かけたいのに、相手とのタイミングが合わなくて、イライラすることって、なかったですか?

人は、自分が構って欲しいとき、駄々をこねたり、訳の分からないことを言って、相手の注意を引こうとする生き物です。

子供特有の表現ではあるのでしょうが、多少変化して、大人でも、表現する行為ですよね。

自分の周りに、そんな人がいたら、まず、慈しみの心で、その人に、愛情を注いでみては、如何でしょうか?

その人を、愛情に飢えた可愛い子犬か子猫だと思えばいいって言ったって、なかなか、難しいかもしれませんが、そこは、大人の対応を(^^)

攻撃されて、そんな気分になれないと思って、同じ波動で、相手を攻撃しても、何の解決にもならないから。

どちらかが、冷静にならないと解決しないのなら、自分が、まず、冷静になっていけばいいだけのことです。

また、本当は、皆と仲良くしたくて、笑っていたいのに、プライドの高さと、自分が、守りたい地位が邪魔をして、高圧的な態度しか、取れない人もいます。

寂しがり屋で、皆に、自分を認めてもらいたくて、必死でアピールしているのでしょうが、本人のやり方が、間違っているのでしょうね。

今まで周りの人も、その人を甘やかし、指摘しなかったのではないでしょうか?

それとも、指摘した人を、その人が、排除していたのかもしれません。

人間、誰しも、そんな裏腹な心を、持っているものです。

本人の感情表現が問題であり、本人の日常生活で、愛の受け渡しがうまくいっていないからなんだって気がします。

周りは、甘やかすのではなく、間違っていることは、感情を省いて愛を持って、きちんと伝えていくことが、必要になってくるんじゃないかって思います。

感情VS感情は、何も生み出さないんですよね(^^;

どんなに感情的に言われても、こちらが冷静に対応していれば、本人も、少しは気づいて、変わっていくこともあるだろうと思います。

そんなクセのある人は、今一度、自分をも振り返ってみましょう!

振り返ることで、変わっていくと思います。

春はみどりの息吹、夏は水や風の調べ、秋の深まれば虫の声、冬は雪の静けさ等が、ぱっと思いつくのだけれど、例えば、この短歌の季節感の様に、

「ボールペンが落ちても鞄をひらいてもすべての音が十月である」
(荻原裕幸『永遠よりも少し短い日常』より)

「十月」と限定されると、一瞬、考え込んでしまうけど、季節の変わり目というものを、ほんの少し過ぎて、次の季節の気配を纏い始めた頃の空気の変化を、ふっと思い出させてくれる感じを大切にして、気分転換に、お出かけして、自然の息吹を感じに行くのもいいね♪

素直な感情を、取り戻すために(^^)

■一月

「あおあおと一月の空澄めるとき幻の凧なか空に浮く」
(岡部桂一郎『竹叢』より)

「寒波襲来の予報流るる一月の晦日の夜更け母は逝きけり」
(小見山泉『みづのを』より)

「カレンダーの反り美しき一月の泉のごとき十日間ほど」
(細溝洋子『コントラバス』より)

■二月

「波止場には大き魚の頭(ず)残されてその目見ており二月の空を」
(田中栄『海峡の光』より)

「舟屋ってけっこう広いTシャツとカマスの干物が二月に吹かれ」
(高田ほのか『短歌往来』4月号 第32号第4巻より)

「ついさっき裸の馬が駆け抜けたそんな二月の午前五時半」
(坪内稔典『雲の寄る日』より)

「でもそれでいいんだとてもみぞれ降る二月のことを聞かせてほしい」
(岐阜亮司「デート」『北大短歌』第五号より)

「約束をつんと破ってみたくなる二月の空にもりあがる月」
(干場しおり『天使がきらり』より)

「梅咲いて梅散ってたちまち終わりにき風ひかる二月われのきさらぎ」
(久々湊盈子『風羅集』より)

「かのときの二月岬の潮風になびきてありしえり巻きのQ」
(杉崎恒夫『パン屋のパンセ』より)

■三月

「三月はぬたといふ食じき春泥によごるるごとき葱が甘くて」
(黒木三千代『クウェート』より)

「三月はいつ目覚めても風が吹き原罪という言葉浮かび来」
(さいとうなおこ『逆光』より)

「三月の君の手を引き歩きたし右手にガーベラ握らせながら」
(立花開『ひかりを渡る舟』より)

「山頭火で三一〇円のラーメンを食べていたのが三月十日」
(土岐友浩『僕は行くよ』より)

「百年後も決して終はらぬ三月がまた来る冬のコート着たまま」
(小林真代『Turf』より)

「三月のビニール傘にわたくしをころさぬほどの雨降りそそぐ」
(嵯峨直樹『神の翼』より)

「もう逢えぬ人あまたある三月に小鳥来てふいー、ふいー、と啼くも」
(齋藤芳生『花の渦』より)

「田も畑も見渡す限り沼となり遺体浮く見ゆ三月十二日」
(金野友治『震災のうた―1800日の心もよう』より)

「しみじみと三月の空ははれあがりもしもし山崎方代ですが」
(山崎方代『こんなもんじゃ 山崎方代歌集』より)

「無抵抗主義者のやうなる草の根のおどろくばかり長し三月」
(荒垣章子『虚空の振子』より)

「三月の暦が壁にぶら下がる君の部屋より見ゆる葉桜」
(武藤雅治『暗室に咲く白い花』より)

■四月

「匂ひの記憶、ではなく記憶そのものの匂ひとおもふ四月の雨は」
(魚村晋太郎『バックヤード』より)

「生け垣が羊の群れになる四月「大学通り」に咲くユキヤナギ」
(本条恵「春の羊はどこまでも」より)

「捨て猫の瞳の底に銀の砂 四月の雨はふいに降りやむ」
(山崎郁子『麒麟の休日』より)

「はる四月白くさびしき花水木もうすぐ夫のなずき削らる」
(佐波洋子『時のむこうへ』より)

「緑道を黙って歩く父だった四月の霧をほおひげに受け」
(中沢直人『極圏の光』より)

「四月七日午後の日広くまぶしかりゆれゆく如しゆれ来る如し」
(窪田空穂『清明の節』より)

「風ゆきつもどりつ幌を鳴らすたび四月闌けゆく三月書房」
(佐藤弓生『薄い街』より)

「冴えわたる四月晴朗どのような顔か母であり母でなきわれは」
(松平盟子『プラチナ・ブルース』より)

■五月

「母逝きしのちの五月もアマゾンの母の日ギフトの案内は来ぬ」
(畑中秀一『靴紐の蝶』より)

「裂けて地にある花びらに人間の童話を聞かす。五月某日」
(杉原一司遺稿「未定稿」より)

「産めやしない、産めはしないがアメジスト耀け五月なる疾風に」
(黒瀬珂瀾『ひかりの針がうたふ』より)

「月かげを背後(そびら)に溜めてなかぞらを量感すごき五月のむら雲」
(島田修三『露台亭夜曲』より)

「壁のそばに葉が揺れてゐる葉のうらに風が光つてゐる五月であるも」
(加藤克己『螺旋階段』より)

「屋上で白く干されたシーツたち五月はきっと揮発する夏」
(鈴木智子(「イラン、夏」より)

「耳の垢ほりて金魚に食はせ居りいつとはなしに五月となりぬ」
(小池光第四歌集『草の庭』より)

「五月の樹をゆるがせて風来たるのち芯までわれを濡らす雨あれ」
(横山未来子『花の線画』より)

「空の海にさらはれたりや飛行船 五月の空は底なしの青」
(竹内由枝『桃の坂』より)

「五月来る硝子のかなた森閑と嬰児みなころされたるみどり」
(塚本邦雄『緑色研究』より)

「みづいろの楽譜に音符記されずただみづいろのまま五月過ぐ」
(荻原裕幸『青年霊歌』より)

「五月雨に物思ひをれば郭公夜ぶかくなきていづちゆくらむ」
(紀友則『古今集』夏歌よりより)

「いるんだろうけど家に入って来ないから五月は終わり蚊を見ていない」
(永井祐『日本の中でたのしく暮らす』より)

「哲学を卒(を)へしこころの青々と五月、机上に風ふきわたる」
(高島裕『旧制度アンシャン・レジ-ム』より)

「陰(ほと)に麦尻に豆なる日本の神話の五月るるんぷいぷい」
(坪内稔典『豆ごはんまで』より)

■六月

「六月の朝のくもりを雀とぶそらより土に土より空へ」
(玉城徹『われら地上に』より)

「われは一人の死の意味にながく苦しまむ六月十五日の警官として」
(筑波杏明『海と手錠』より)

「泣ききれず泣きやみきれず六月の空こきざみに肩をふるはす」
(福士りか『サント・ネージュ』より)

「ヴェランダは散らかっていて六月の台風がもうじきやってくる」
(土岐友浩『Bootleg』より)

「六月の雨吸ひつくしたる量感に山あり山の木木は立ちたり」
(三崎澪『日の扉』より)

「こんなにも太つてしまひし青柿よ六月まひる出会ひがしらに」
(足立晶子『雪耳(シュエアル)』より)

「六月の折鶴かなし八人の子供に長き死後とふ時間」
(木村輝子『海の話』より)

■七月

「七月七日一夜かぎりの逢ひの外白牛はやさしき眠りを得しや」
(尾崎左永子『椿くれなゐ』より)

「六十四まで生きえしこの身をよしとせむ生れ月七月は黄瓜の匂ひす」
(河野裕子『蟬声』より)

「七月の日照(ひでり)の庭にちひさなるとかげ光りて見えかくりする」
(岡本かの子『浴身』より)

「七月十七日かなかな鳴けり幾度か短く鳴けり夜のベランダに」
(花山多佳子『草舟』より)

「すずやかな空の青さで顔を洗う心地のあした七月となる」
(五十嵐きよみ『港のヨーコを探していない』より)

「青年死して七月かがやけり軍靴の中の汝が運動靴」
(安藤正「國學院大學内立て看板」より)

「仄白く鉄路の死体雨しぶく一九四九年七月五日深夜」
(大野誠夫『行春館雑唱』より)

「「この味がいいね」と君が言ったから七月六日はサラダ記念日」
(俵万智『サラダ記念日』より)

■八月

「坂に置かれたオレンジのピンポン玉として残りの八月をくだってく」
(永井祐「広い世界と2や8や7」より)

「ゆるやかな心変わりで幽霊に会えなくなった八月のこれから」
(N/W「幽霊たち」Website「TOM」より)

「八月の蟻がどんなに強そうに見えるとしてもそれは光だ」
(兵庫ユカ『七月の心臓』より)

「波とほく寄する耳鳴り 八月の雲が厚みを増してゆくとき」
(目黒哲朗『CANNABIS』より)

「八月の耳はとがれりバケツ打つ雨音しきりにポツダムポツダム」
(春日いづみ『八月の耳』より)

「ペルセウス流星群にのってくるあれは八月の精霊(しょうりょう)たちです」
(杉﨑恒夫『パン屋のパンセ』より)

「二十九歳父の軍服は夏のまま七十回目の八月迎ふ」
(四竃宇羅子『翼はあつた』より)

「八月のまひる音なき刻(とき)ありて瀑布のごとくかがやく階段」
(真鍋美恵子『羊歯は萌えゐん』より)

「六十年むかし八月九日の時計の針はとどまりき いま」
(竹山広『空の空』より)

■九月

「風鈴がふるえる九月生きてゆくための思想に上書きはなく」
(宮本史一『cahiers』vol.7,2017.11より)

「右からも左からも愛されていて肩をすぼめる九月の寝床」
(御糸さち『ねこのね、』より)

「チーズ濃く香る朝なり遠景に書物のごとき森ある九月」
(小島ゆかり『六六魚』より)

「なめらかなわたしの腕を撫でる手がわたし以外にあるべき、九月」
(小原みさき「殴って撫でた」 「東北短歌」第3号より)

「天からのサインが風に溶けてゐて諦めよといふ九月の朝に」
(新井蜜『鹿に逢ふ』より)

「われといふ瓶(かめ)をしづかに盈たしたる素水(さみづ)と思ふ、九月の君を」
(高島裕『薄明薄暮集』より)

■十月

「変はり得ぬわれを率ゐて十月と九月をつなぐ真夜を渡りつ」
(横山未来子『水をひらく手』より)

「十月の跳び箱すがし走り来て少年少女ぱつと脚ひらく」
(栗木京子『綺羅』より)

「十月の孟宗竹よそうですか空はそんなに冷えていますか」
(佐藤弓生『世界が海におおわれるまで』より)

「「もう秋ね」「もう十月ね」もうという枕詞があるかのごとし」
(山田曜子『道化師の午後』より)

「十月の雨そぼふりぬ公園にをさなごひとりゲートボールす」
(仙波龍英『墓地裏の花屋抄』より)

「ただの日となりてかろうじて晴れている十月十日ジョギングをせり」
(中沢直人『極圏の光』より)

「馬は人より天にしたがひ十月のはがねのかをりする風の中」
(塚本邦雄『睡唱群島』より)

■十一月

「ヨット一艘丸ごと洗ひたし十一月の洗濯日和どこまでも青」
(青井史『月の食卓』より)

「きみが十一月だったのか、そういうと、十一月は少しわらった」
(フラワーしげる『ビットとデシベル』より)

「水薬の表面張力ゆれやまず空に電線鳴る十一月」
(穂村弘『シンジケート』より)

■十二月

「十二月二十八日午後二時のひかりのなかに二つの林檎」
(今井恵子『渇水期』より)

「灰色の空見上げればゆらゆらと死んだ眼に似た十二月の雪」
(鳥居『キリンの子』より)

「靴下は穿くためにある――十二月二十四日の母の口癖」
(大村陽子『砂がこぼれて』より)

「十二月八日といふ日つねの如朝の散歩の途次の思ひに」
(清水房雄『已哉微吟』より)

■十三月

「舞い上がるぺらぺらな紙このままで十三月の空に死にたし」
(吉田千枝子『十三月の空』より)

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