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【エイプリルフール的な雑感(その1)】それをどれだけ信じられるか?

『ウォルター少年と、夏の休日』(Secondhand Lions)という映画を観たことがありますか?

Secondhand Lions - Original Theatrical Trailer

ストーリーは、美しい女性が写った一枚の古い写真を少年が見つけるところから動きはじめます。

この女性は誰で、老人二人とどういう関係なのか。

その壮大な昔話を老人が語るくだりは、ファンタジックな冒険物語として演出されています。

少年は、老人の話に胸躍らせながらも、最後にはどこまでが真実なのかを本人に確かめようとします。

そして、その先に感動的な展開が待っている(^^)

老人が少年に“大切なこと”を伝えるスピーチのシーンは、男性ならば思わずうなづいてしまうであろう名場面です!

「愛は何よりも大切だとか、

金より大切なものがあるとか、

大切なのはそれが真実かどうかということではなく、

それをどれだけ信じられるかである。」

私たちは、常に真実を探しているわけじゃないんですよね。

それを信じたいわけでもない。

その時その時で、信じたいことを信じたいだけのことが少なくないんですよね(^^)

だから、私たちは、恐れることもあります。

自分について本当でないことが信じられることを、極度に恐れています^^;

本当でないことを信じる奴らなんて、放っておけばいいのに、放っておけない。

何が本当かどうかよりも。

何を信じているか。

信じられているかの方が影響大なんて、不思議だけれど。

やっぱり、人間は感情の動物だから、しょうがないのかなぁって気がします。

もしも、これは大切な原則だ、と思えることを見つけたら。

信じられる自分を、それを行える自分を育てたいですね。

例えば、「たとえ嘘だとしても、信じることが大切だ。」という教訓がこの映画のポイントになっているけど、みなさんもそう感じたことがありますか?

でも、自分なりの信条を持つのはとても大切なことだと思います。

この映画の中で老人がウォルター少年に「たとえ真実だという証拠がなくても、信じること自体が大切だ。」と教えます。

自分なりのモラルに従って行動するためには、しっかりした信条が不可欠だと思いました。

人の意見に左右されず、自分の信条に沿った生き方ができれば素晴らしいよね(^^)

人生にとって必要なのは大金でも権力でもない。

“自分にふさわしい居場所”“語るにたる物語を得ること”ではないでしょうか?

そして、その物語の逐一が事実である必要はないのかなって気がします。

全部が全部“事実ではないかもしれないが、信じるだけの価値のあること。”を語れるようになること。

即ち人生の求めるところなのだろうと改めて思います。

つまり、どんなことであれ、案外事実だったりする可能性が皆無とも言えないわけだということと同時に。

事実であったからといって信じられたことの本質や感動が格別新たになったりするものでもないということを。

どんな出来事も、笑って眺める些細なことに過ぎないことなのかもね(^^)

でも、今の世の中が“事実ではないかもしれないが、信じるだけの価値のあること。”をいかに失っているか。

特に、いかに次代に与えてやれなくなっているかということに改めて思いが及びます^^;

世の中のモラルハザード、教育の荒廃、全ての処がここに集約されるような気がする。

“信じられる価値”というものが、多くの人にとって、ひどく限られた痩せたものでしかなくなっている気がしてなりません。

夢やら冒険。

可能性や希望や理想。

そういったものの価値を信じられる”本物の男達”が少なくなった様に感じます。

今の荒みが来ているように思わないではいられない状況ですね。

今の日本は。

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