【愛する世界】音楽と文学
Poesie ist ein Wort, das nicht zu Musik wurde, und Musik ist ein Gedicht, das nicht zu Worten wurde.
詩は音楽にならなかった言葉であり、音楽は言葉にならなかった詩である。
ヘルマン・ヘッセ
【参考図書】
「ヘルマン・ヘッセと音楽」フォルカー ミヒェルス(編)中島悠爾(訳)
【参考文献】
ご存じの方も多いと思いますが、イ・ムジチ合奏団の演奏で、一世を風靡したヴィヴァルディの「四季」。
実は、最初に、この曲を世に紹介する役割を果たしたのが、カール・ミュ ンヒンガー盤(1958年)だったそうです。
その翌年に、イ・ムジチ盤が世に出て、話題をさらっていった。
フェリックス・アーヨの演奏以降、リーダーが変わるにつれて、幾度かの録音が行われて行く中で、70年代に入り、「四季」の定番は、イ・ムジチ合奏団ということになった。
ところが、それ以前に、更に、ヘルマン・ヘッセも、お気に入りだった、素晴らしいヴィヴァルディを聴かせてくれる団体があったそうです。
レナート・ファザーノ指揮ヴィルトゥオージ・ディ・ローマの演奏です。
そして、なんと、1955年の録音盤が、今でも聴くことが出来るんですよ(^^♪
ファザーノ&イ・ヴィルトゥオージ・ディ・ローマのヴィヴァルディ/「四季」
その楽団を聴いての、ヘルマン・ヘッセの手紙が残っています。
「1956年8月14日
オットー・ブリューメル宛
またよい音楽に巡り会いました。
例えば、今晩私達はサン・モリッツで、私が非常に高く評価しているローマの指揮者ファザーノが、あの名人揃いの彼の小さな室内楽団と演奏するのを聴きます。
これは私がこれまでに出会った最も完全なアンサンブルです。
ミュ ンヒンガーも頑張っていますが、到底この域には達していません。
今夜のプログラムはすべてヴィヴァルディです。 ヘルマン・ヘッセ」
ヘッセは、幼いころから、音楽こそが、自分を、最も強く捉え、支配するよう定められている、と感じていたと言います。
何ひとつ、楽器を、習わなかったし。
楽譜に、触れる事すら、なかったそうです。
その様な環境下であってさえ、自分の血の中には、拍子も、リズムも、自分の命とともにあった、とも語っています。
そこで、以下の【参考図書①】の中に、気になるタイトルの本とかあれば、ちょっと覗いてみませんか?
もしかしたら、彼の思いに近づけるかもしれませんよ(^^)
【参考図書①】
「リズムの本質 新装版」ルートヴィヒ・クラーゲス(著)杉浦實(訳)
「リズムの哲学ノート 」山崎正和(著)
「リズム現象の世界 新装版」蔵本由紀(編)
「生命とリズム」(河出文庫)三木成夫(著)
「リズムの生物学」(講談社学術文庫)柳澤桂子(著)
「リズムの本1 拍感が身につくリズム曲集 Sollasis 楽譜」藤田吏宇(編著)
また、
「詩は、音楽を、表現しうるか?」
との視点は、面白いと思います。
詩が、音楽を主題とするとき、果たして、如何なる作品が生み出されるのか?
詩は、音楽という不可視の対象を、如何にして表現するのか?
例えば、ドイツの詩人ツェーザル・フライシュレンの詩に、
「心に太陽を」という詩があります。
心に太陽を、くちびるに歌をもち、前向きに生きていこうという詩です。
歌は、人々の心を勇気付けたり、励ましたりするものです。
歌のメロディ―や、歌詞の言葉から、人は、大きな力をもらっています。
幾度となく、繰り返し聴き、歌った歌には、その時々の人生模様が、刻銘に、刻まれています。
メロディ―に乗って歌われる歌詞のひとつひとつの言葉は、
■心洗われる情景の美しさ
■痛みに寄り添うやさしさ
■希望を与え
■勇気を与える言葉
等、多くの側面から、心情に、豊かに働きかけるものです。
そして、その言葉のもつ意味だけにとどまらず、詩の言葉の抑揚や、リズミカルな言葉の流れは、それだけでも、音楽であるといっても、過言ではありません。
前述の通り、ドイツの詩人・ヘルマン・ヘッセは、
「詩は音楽にならなかった言葉であり、音楽は言葉にならなかった詩である」
と、詩と音楽の一体的な特性を、表現していました。
同様に、詩人・萩原朔太郎も、
「詩は文学としての音楽であり、小説は文学としての美術である」
と、詩と音楽や、小説と美術との関連を主張していましたね。
参考図書①で紹介した本の中でも、言葉とも、音楽ともいえない音の律動から生まれるリズムは、人間の呼吸や、鼓動といった、生命そのものとも、密接に結びついているのだとの見解が、語られていました。
萩原朔太郎は、
「詩は音楽と同じものであって、その言葉の一つ一つが、ある一つの音符であり一つの意義ある音でなければならぬ」
とも、語っていました。
詩における言葉一つ一つが、音楽を構成する音符と同じように、深い意味をもつものとして、音楽的な要素を有するという点に、鋭い感性の発現を感じられる点に、着目しています。
内発的な心情が、洗練された言葉により、音楽的に表現された詩の言葉は、人々の言葉にならない心の複雑な襞を埋めると共に、自分でも気付かない、心の奥底に抱える、様々な心情を、覚醒させてくれるのでしょうね(^^♪
それは、作者の選び抜かれた真珠のような言葉一粒一粒が、読み手の光や闇の両面から、多角的な当て方により、人間の心の深部の、様々な側面を、映し出すからであるとも言えますね。
歌や、その歌詞が、人の悲しみや苦しみを浄化し、心を鼓舞してくれる。
また、ある時には、他者と一体となり、未来に希望を持って、歩き出す後押しをしてくれるものであるならば、歌や詩は、確かに、人間の生き方と深く関わっていると言えそうですね(^^♪
【参考図書②】
「イタリアの詩歌 音楽的な詩、詩的な音楽」森田学/天野恵(著)
「詩の住む街 イタリア現代詩逍遥」工藤知子(著)
「イタリアの詩人たち 新装版」須賀敦子(著)
ここで、シューマンの音楽のような小説である、ヘルマン・ヘッセの本書を読んで頂けると、
「孤独な魂―ゲルトルート」(角川文庫)ヘルマン・ヘッセ(著)秋山六郎兵衛(訳)
小説の中では、音楽が、通奏低音のように、物語を支えているのですが、詩的な文章のフレーズは、まるで、シューマンの音符を、文字にしたような美しさを、感じて頂けるのではないかと思います。
ヘルマン・ヘッセ自身、シューマンを、とても愛していて、友人だったピアニストのクララ・ハスキルに、
を弾いてくれるよう頼んでは、耳を傾けていたそうです。
ここで、ヘルマン・ヘッセが、シューマンに、愛情を注いだエッセイがあり、シューマン音楽の核心を端的についているので、参考までに、紹介させて頂きますね。
「この音楽には、絶えず風が吹いています。
一日中いつまでも吹き続けるうっとうしい重苦しい風ではありません。
跳びはね戯れるような、突風のように気ままな、いきなり吹き始めてびっくりさせるかと思うともうまた止んでしまう。
そんな風なのです。
好天の日の風です。
良き旅仲間、遊び仲間みたいに、元気はつらつ、次次とすてきなことを思いつき、時には賑やかにおしゃべりをし、時にはじっと止まっていられずに走ったり踊ったりするのです。
この音楽は優美さと若さに満ち溢れて、気持ち良く風が吹き、身を揺すり、踊り、跳びはねています。
時には勝手気ままに、時には優しく、ほほ笑み、笑い、戯れ、ふざけたりしています。
この素晴らしい音の詩人が、鬱病を病み、やがて死に至ったなどとは想像も出来ないくらいです。
もちろん、この音楽に平静さが、均衡が欠けています。
いわば心のふるさとが欠けています。
この音楽はもしかするとあまりに元気過ぎ、あまりに憩いを知らず、あまりに躍動し、風のようであり過ぎるのかもしれません。
あまりに動きが激しく、あまりに若さの情熱に駆りたてられ過ぎているのかもしれません。
だからいつかそれは疲れ果てずにはいないのです。
この健康なシューマンの音楽と、病んだシューマンとの間には、あのクレメンス・ブレンターノの若い頃の荒々しい諧謔と、後年の深刻さの間にあるのと同じ深淵が口を開いているのです。
そして今、われわれの複雑ないささか感じやすい世界で、音楽がひときわ美しく響くように、この愛すべき音楽家を待ち受けていた夜と深い闇をわれわれが知れば知るほど、優美に風の吹き渡る、若々しく美しい、落ち着きのないないこの上機嫌の音楽は、一層魅力的に、一層軽やかに、一層愛らしくわれわれの耳に響くのです。」「シューマンの曲を聴いて」(1948年2月)
【参考図書③】
「音楽が本になるとき 聴くこと・読むこと・語らうこと」木村元(著)
「神曲のツボ! 「カッコいい」の構造分析」坪口昌恭(著)
「世界の音 楽器の歴史と文化」(講談社学術文庫)郡司すみ(著)森重行敏(解説)
「音楽と人のサイエンス 音が心を動かす理由」(ニュトン新書)デール パーブス(著)小野健太郎(監修)徳永美恵(訳)
「ヒット曲のリズムの秘密」(インターナショナル新書)ドクター・キャピタル (著)
「1冊でわかるポケット教養シリーズ 数字と科学から読む音楽」西原稔/安生健(著)
「1冊でわかるポケット教養シリーズ 吉松 隆の 調性で読み解くクラシック」吉松隆(著)
そう言えば、谷川俊太郎さんも、この様な思いだったんですねぇ(^^♪
谷川俊太郎詩集「音楽のように」
音楽のようになりたい
音楽のようにからだから心への迷路を
やすやすとたどりたい
音楽のようにからだをかき乱しながら
心を安らかにみちびき
音楽のように時間を抜け出して
ぽっかり晴れ渡った広い野原に出たい
空に舞う翼と羽根のある生きものたち
地にはう沢山の足のある生きものたち
遠い山なみがまぶしすぎるなら
えたいの知れぬ霧のようにたちこめ
睫毛にひとつぶの涙となってとどまり
音楽のように許し
音楽のように許されたい
音楽のように死すべきからだを抱きとめ
心を空へ放してやりたい
音楽のようになりたい
最後に、作者の感性があふれ出す「音楽」をうたった短歌を、紹介してみますね(^^♪
「右足でペダル踏むときメンデルスゾーンの髭にすこし触れたり」
(駒田晶子『銀河の水』より)
「花束はピアノの上に置かれたりアンコールへと入りゆく静寂(しじま)」
(飯沼鮎子『プラスチックスクール』より)
「ねこたちが居間でうろうろアドベンチャー ピアノに乗ってさらに欄間へ」
(山川藍『いらっしゃい』より)
「誰も弾かぬピアノとチェンバロある家で除湿機の水をせつせと捨てる」
(福井まゆみ『弾かない楽器』より)
「野葡萄もみのりそめたる紫の秋をわが身はうたはざるチェロ」
(築地正子『みどりなりけり』より)
「f字孔のぞけば暗き空間よ 空(くう)のつくものなべて大切」
(宮地しもん『f字孔』より)
「チェロ弾きの空のケースが床にあり舟のように柩のように」
(本川克幸『羅針盤』より)
「ピアノひとつ海に沈むる映画見し夜明けのわれの棺を思ふ」
(黒瀬珂瀾『黒燿宮』より)
「あとはただ海渡るだけ半島の自動演奏ピアノに寄れば」
(八木博信『フラミンゴ』より)
「うち手折り たむ ふさ手折り たむたたむ スネアドラムはたたむ 鼓動す」
(十谷あとり『ありふれた空』より)
「とほき彼方の席には私語の音域がありジョン・ケージを講ずるときも」
(小林幹也『太陽の舟』より)
「音楽のように生きたい」英語の授業に眠りつつ聞く」
(花山周子『屋上の人屋上の鳥』より)
「「バード」とはジャズ・プレーヤーのチャーリー・パーカーのことで、Big」
(白瀧まゆみ『自然体流行』より)
「六月の挽歌うたはば開かれむ裏切りの季節ひとりの胸に」
(黒田和美『六月挽歌』より)
「ゆるやかにピアノの中にさし入れる千年前の雨の手紙を」
(鳴海宥『BARCAROLLE [舟唄] 』より)
「水底にさす木漏れ日のしずけさに〈海〉の譜面をコピーしており」
(鈴木加成太「革靴とスニーカー」より)
「ふれがたく黒白の鍵盤(キイ)整列す美しい音の棺のやうに」
(河野美砂子『ゼクエンツ』より)
「逝く夏のかなしみ透かす桔梗は薄暮のやうにカノンのやうに」
(山口雪香『白鳥姫』より)
「水面の油膜虹いろにさざめきアダージォ聴こゆ 遠きヴェニスの朝に死すとき」
(大和志保『アンスクリプシオン』より)
「トライアングルぎんいろの海をみたしつつ少年が打つ二拍子ほそし」
「はつ夏のひかりめぐりて駆けゆける自転車の輪のこぼすアレグロ」
(上村典子『草上のカヌー』より)
「地球終了後の渋谷の街角に聞こえる初音ミクの歌声」
(岡野大嗣『サイレンと犀』より)
「サイダーのコップに耳をあててきくサイダーのすずしい断末魔」
(岡野大嗣『たやすみなさい』より)
「ノンシャランと夢を貌(かお)よりふりおとすとおいユラ紀の銀杏のカノン」
(水原紫苑『びあんか』より)
「解剖台のうえのミシンと女郎蜘蛛 出糸腺からあふれだす歌」
(小林久美子『恋愛譜』より)
「ジャズ喫茶「しあんくれーる」にきみはゐるおとぎ話のやうな永遠」
(橘夏生『大阪ジュリエット』より)
「イヤフォンではやりの歌を聴きながらあかるく雪ふるここで待ってる」
(宇都宮敦『ハロー・グッバイ・ハロー・ハロー』より)
「ヘヴンリー・ブルー 花であり世界でありわたくしであり まざりあう青」
(早坂類『ヘヴンリー・ブルー』より)
「天上のスピーカーからこぼれ落つ死んだ男のピアノの音が」
「tempo rubato. 崩ゆる世界の表面を自由自在に雨は鳴らせり」
(門脇篤史『微風域』より)
「海岸に借りた車を停まらせてポップソングになれない僕ら」
「スプーンがカップの底に当たるときカプチーノにも音階がある」
(伊波真人『ナイトフライト』より)
「みぬちなる音盤(ディスク)は風にほどけゆき雪ふる空のあなたへ還る」
「ゆふやみへ消ゆる鴉のフェルマータ呼ぶ声たかくとほくをはりぬ」
(紀水章生『風のむすびめ』より)
「また雪が降つてくれればアダモ喜ぶついでにサッチモ聴きたくもあり」
「ナガサワと思ひて入るもさにあらでキング・サニー・アデの名出でつ」
(資延英樹『NUTS』より)
「夏の朝 体育館のキュッキュッが小さな鳥になるまで君と」
「まなざしはいつも静かでまばたきは水平線への拍手のようで」
(木下侑介『君が走っていったんだろう』より)
「ティンパニの音がかすかに鳴っている夢に出てくるみたいなカフェ」
「ぼんやりとしうちを待っているような僕らの日々をはぐらかす音楽(おと)」
(早坂類『風の吹く日にベランダにいる』より)
「街路樹の木の葉ふるときソラシドレ鳥刺の笛がきこえませんか」
「漆黒のさくらんぼ地にこぼれいてピアノぎらいの子供の音符」
「一度だけ自分勝手がしてみたいメトロノームの五月の疲れ」
(杉﨑恒夫『食卓の音楽』より)
「べくべからべくべかりべしべきべけれすずかけ並木来る鼓笛隊」
「丈たかき斥候(ものみ)のやうな貌(かほ)をして f (フォルテ)が杉に凭れてゐるぞ」
「海のむかうにさくらは咲くや春の夜のフィガロよフィガロさびしいフィガロ」
(永井陽子『モーツアルトの電話帳』より)
「僕たちの寿命を超えて射すひかりの中で調弦されてリュートは」
「ソ、レ、ラ、ミと弦を弾(はじ)いてああいずれ死ぬのであればちゃんと生きたい」
「平行に並んで歩けば舫われた舟のよう はるか鉄琴の音」
(笹川諒『水の聖歌隊』より)
「ベランダに夜を見にいく飲みものを誰かが買っていく音の夜」
「音楽は水だと思っているひとに教えてもらう美しい水」
「イヤフォンを外す 目だけでは真夏だと信じてしまう雲を見つけて」
(岡野大嗣『音楽』より)
「水たまりに光はたまり信号の点滅の青それからの赤」
「左手でリズムをとってる君のなか僕にきけない歌がながれる」
「あかんぼが抱き上げられてからっぽのベビーカーのなか充ちるアンセム」
(宇都宮敦『ピクニック』より)
「降りさうで降らぬいち日水無月を張りつめている夜のピアノ線」
「満潮の海のさやぎと還りくる漁舟の響きときみの鼓動と」
「指の先かすかに湿る夏の午後分散和音(アルペジオ)低く流れ落ちたり」
「光芒の水に折れゆく見てあれば調絃の音ほのかにきざす」
(今野寿美『花絆』より)
「Fの音わづかに低い古ピアノ患者弾きをりその思ひ出を」
「Harmonia mundi(世の調和)などてふことは鍋のなか(のみに!)顕はるるものとこそ知れ」
「幼子が持ち来るレコードを手に取れば〈世のおはりのための四重奏曲〉」
「無伴奏ヴィオラは降りて最弱音ピアニッシモ つひに二人に浄夜は来たり」
(松岡秀明『病室のマトリョーシカ』より)
「椅子の距離やや遠くして弾きはじめ残響一・五秒をためす」
「鍵盤のちがふ深さの沁みるまで指に腕に押さふる黒白を」
「総休止(ゲネラルパウゼ) わが身は失せて空間のごとき時間が開(あ)くぽつかりと」
「手套(てぶくろ)にさしいれてをりDebussyの半音にふれて生(なま)のままのゆび」
「野をわたる草色の和声(ハーモニー)目に見えて〈幻想〉はながい旅をはじめる」
(河野美砂子『無言歌』より)
「プレイエルに伏せたる君の背中へと月の光のとけゆく夕べ」
「音楽をするひとはみな美しき種族(ひと) ジャクリーヌ・デュ・プレも君も」
「フローレス・トスカ夜ごとに落ちてゆくabcdef字孔」
「銀の義指波打つごとく思い出す海底ピアノの眠れる音を」
「遠浅の海の渚にファルセット響きわたって暮れる八月」
「遠雷に微か震える聴覚のどこかにあわれバイオリン燃ゆ」
(五十子尚夏『The Moon Also Rises』より)
「秋はひとりまぶたをとじて耳を澄ます 雨のなかに隠した音楽」
「うしなわれた水平線に夜は果て桃は剥かれたソーダ水のアリア」
「バスタブに糸をたらした女の子 音楽はまだきこえてこない」
「とおくまで透きとおる音 廃線のかなたに光る人工衛星」
「(もう二度と泣かないように)(つらいですか)夜、海底に沈めるピアノ」
「歌声が法律である星に立つ死刑のためのボーイソプラノ」
「ある朝に電池のきれたロボットのかすれてしまったボーイソプラノ」
「内臓のくらさを知ればはちみつはクラリモンドに捧ぐソネット」
(安井高志『サトゥルヌス菓子店』より)
「昼飯を街のはずれに探しつつ新堀ギターの看板ひとつ」内山晶太
「銀盤にプリンをのせて売りに来る浜名のうみにさしかかるころ」小池光
「見る夢の端から端まで伸ばしてもオクターヴには届かない指」佐佐木定綱
「みづからのこゑを絶たれし青年が月夜にかき鳴らすエレキ・ギター」千葉優作
本歌「電流を絶たれ、はじめてみづからの聲なき唄うたふ電氣ギター」塚本邦雄
「そのひとをピアノに変へてしまひたり霜月の夜のはるけき火事が」千葉優作
本歌「ほほゑみに肖てはるかなれ霜月の火事のなかなるピアノ一臺」塚本邦雄
【参考記事】
【参考図書④】
「短歌現代 2006年 04月号 特集 鑑賞・音楽としての現代短歌」
「短歌と音楽」名和長昌(著)
「短歌と音楽(続)」名和長昌(著)
「短歌と音楽(3)」名和長昌(著)
「つぶやく現代の短歌史(1985-2021) 「口語化」する短歌の言葉と心を読みとく」大野道夫(著)
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