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【「嗜む」のすすめ】デザインにおける文字の重要性に焦がれ本を嗜む

Harumiさん撮影

私達が密かに大切にしているものたち。

確かにあるのに。

指差すことができない。

それらは、目に見えるものばかりではなくて。

それらを、ひとつずつ読み解き。

それらを、丁寧に表わしていく。

そうして出来た言葉の集積を嗜む。



■テキスト

「日本の国宝、最初はこんな色だった」(光文社新書)小林泰三(著)

[ 内容 ]
実はカラフルだった大仏殿、ロウソクの下で蠢く地獄絵図…。
学術的な根拠にもとづきながら、作品誕生当初の色彩に復元すると、作者の気持ちや時代の空気が見えてくる。
さらに、デジタル技術で実物大のレプリカ作品を作り、ガラス越しでなく身近に作品と接してみよう。
私たちは、往時の人びとの目線―屏風やふすま絵など、日常生活に美術を取り入れてきた伝統―を体感することができる。
本書は「地獄草紙」「平治物語絵巻」、そして狩野永徳「桧図屏風」などの国宝作品を題材に、私たちの美術観・時代認識に修正を迫る意欲作である。

[ 目次 ]
デジタル復元の基本
第1章 大仏殿は最新モード―東大寺大仏殿
第2章 鮮やかな闇―地獄草紙
第3章 無常観にズーム・イン―平治物語絵巻
第4章 飛び出す襖絵―桧図屏風
第5章 醍醐の花見にお邪魔します―花下遊楽図屏風

[ 問題提起 ]
東京国立博物館で開催された「対決──巨匠たちの日本美術」や「琳派展」といった日本美術の展覧会には、大勢の人が詰めかけていた。

いずれの展覧会も、俵屋宗達の「風神雷神図屏風」と、それを模写した尾形光琳の同名の作を並べての展示が目玉だった。

1990年代後半から広い意味での日本美術が大衆的な人気を集めるようになった日本美術ブーム。

江戸時代以前の美術品と現代のマンガやアニメを結びつけて論じることも盛んだ。

伊藤若冲の爆発的な人気を筆頭に、曾我蕭白、長沢芦雪、歌川国芳といった、いわゆる「奇想の画家」、長谷川等伯、河鍋狂斎といった江戸の絵師たち、そして阿修羅像をはじめとする仏像への熱狂など、その現象は多岐に渡り、現在もなお衰えていない。

日本美術ブームの始まりを象徴する展覧会は、「没後200年 若冲」展(京都国立博物館、2000)である。

辻惟雄による『奇想の系譜』(1970)によってすでに知られていたにせよ、この大規模な展覧会は若冲の人気を爆発的に高めた。

若冲の図柄をモチーフにしてデザイン化された商品が開発され、ミュージシャンのヴィデオクリップにも引用されるなど、その人気は美術以外の分野にも飛び火した。

その後も、たとえば「プライスコレクション 若冲と江戸絵画」展(東京国立博物館、2006)で32万人、「国宝阿修羅」展(東京国立博物館、2009)で94万人の観客を動員するなど、日本美術ブームの勢いはうなぎのぼりである。

こうした現象を言説の面でフォローしたのが、赤瀬川原平であった。

かつて前衛美術の先端を切り開いてきた赤瀬川にとって、日本美術は自分の後ろにあると思って走っていたら「いつのまにか自分より前に現われていた」という。

近年、積極的に日本美術をとりあげている雑誌「ブルータス」でも、マンガ家・井上雄彦の特集号で、美術評論家の山下裕二が井上作品と日本美術の共通点を解説していた。

本書でもまた、日本美術とマンガの共通点について言及されている。

たとえば、平安時代の絵巻物「地獄草紙」の、赤い鶏の化け物が地獄へ堕ちた罪人たちに火を噴きかけている「鶏地獄」という場面。

損傷が激しく、鶏以外はほとんど色が剥落してしまい、とりわけ罪人たちはすっかり不鮮明になっていた。

この場面を復元したところ、何と、落下する罪人の髪が、上に向かってビュンとはねるように描かれているではないか。

これを著者は、「臨場感記号」と呼び、次のように説明する。

「絵師は、臨場感を想起させる記号をいくつも仕掛けておく。

「鶏地獄」の例だと髪の勢いである。

同じビュンと走らせる描線だけれども、その長さや角度で速さが特定される。

そのような臨場感記号を鑑賞者はとっさに読み取り、リアルな感覚を体感するのである。

これは、まったく現代のマンガと同じではないか」

著者は、日本美術のデジタル復元の第一人者だが、本書においては、デジタル復元の技術的な説明や苦労話よりも、著者自身の手がけてきた美術作品を、奈良時代から時代順にとりあげながら、そこから、「何が見えてくるか」を探ることのほうに、重点が置かれている。

そのためには、鑑賞法まで追究する必要がある。

日本美術は、本来、西洋美術のように壁にかけたり、ガラスケースに入れて鑑賞するようなものではない、と著者は言い切る。

では、どんなふうに鑑賞するべきなのか。

[ 結論 ]
先述の「地獄草紙」は、復元により鮮やかによみがえったのはいいが、復元前の「ひっそりとした侘しさに結びついた怖さ」がなくなってしまった。

どうやら平安時代の人たちは、この絵巻から、また、違った雰囲気を感じ取っていたようだ。

それは、一体どのようなものだったのかを知りたい。

ならば、当時の人びとが鑑賞したであろう環境を、できるだけ再現してみるのがいい。

著者は、復元データを、本物と同じ寸法でプリントアウトし、それを、暗闇でロウソクの灯を頼りに広げてみた。

するとどうだろう、「暗闇から立ち現れる地獄絵図は、すべてがロウソクの頼りない灯りに赤黒く染まって、ゆらゆらと揺れ始めたのである」。

じっと見ていると、絵に引き込まれていくように、いや、絵の世界が、こちらを包み込んでくるように感じられたという。

もちろん、当時の人たちが、実際にこのように鑑賞していたかどうか、正確なところはわからない。

というか、わかりようがないだろう。

だが、ここで重要なのは、形はどうあれ、「見る側が、作品を最大限に生かすために環境を整え、いろいろとしつらえた上で、美術の海に飛び込むという」ことだ。

著者は、このような鑑賞法を、「参加する視線」と呼ぶ。

これは、本書全体を通して登場するキーワードだ。

そもそも、日本人にとって美術品は、ただ飾って見るものではなく、道具だったということが、本書を読むとよくわかる。

実際に、手に取るなりして使うものだったからこそ、作品に、「参加する」ことができるというわけだ。

わかりやすい例としては、屏風絵がある。

屏風は、元来美術品ではなく、生活用品だ。

安土桃山時代より、屏風絵や襖絵などを大量生産した狩野派を、著者は、老舗のインテリアメーカーになぞらえているが、言いえて妙である。

本書では、狩野永徳の「檜図屏風」や狩野長信の「花下遊楽図屏風」の復元が紹介され、その鑑賞法について、推測が行なわれている。

このうち東京国立博物館に所蔵されている後者は、著者がデジタル復元を手がけた最初の作品だ。

大きな桜の木のもとで花見に興じる一行を描いた「花下遊楽図屏風」は、6面折りの屏風2隻で構成され、右隻(うせき。向かって右側)の中心には、貴婦人が、左隻の中心には、八角堂に腰をかける貴公子が配置されている。

が、右隻中央の2面は、1923年の関東大震災で消失し、著者が復元に着手した1996年当時は、左隻しか展示されていなかった。

著者は、震災前に撮影された白黒写真をもとに失われた部分の復元を試み、その上で全体を見たとき、この作品は、やはり二つ並べて鑑賞すべきものなのだと思い知ったという。

ポイントは、画面の下部に描かれた、宴を催す人びとを囲む幕だ。

右隻の右端から斜めへ下がっていくその幕は、一度画面の外に沈み、左隻のなかほどで浮上し八角堂の下まで延びている。

著者は、この幕によって宴のスケールが実感として味わえ、また、左右の屏風が一つにつながり、横長の大パノラマに大きなリズム感が生まれていると評する。

復元前の、左隻だけの展示では、鑑賞者の視線は、幕に従って右下へと進むも、画面をはみだしたまま戻ることができない。

貴婦人の着物の色については、二人の専門家に訊ねたところ、意見が割れたとか。

だが、正確な色はわからなくても、この屏風絵を見るときの目の動きは「事実」である、と著者は、強調する。

「デジタル復元によって発見されたこのバランス構成は、全体をながめることではじめて味わえる。

この目の動きは、描かれたばかりの「花下遊楽図屏風」を見ていた昔も、デジタル復元をながめる今も変わりはない」

さらに、著者は、この2隻の屏風の理想的な配置を探る。

というのも、よく見ると、人物が左隻では小さく、右隻では大きく描かれているなど、左が右よりも、遠景であることに気づいたからだ。

国宝である実物を動かすことは不可能だが、デジタル復元ならベストのポジションやショットを獲得するまで、好き勝手に動かすことができる。

遠近感を強調するため右隻を手前に、左隻を奥に配置するとともに、春の空気に包まれている臨場感も楽しみたいと、2隻を八の字のように内側に向けてみた。

見る場所にもこだわり、右隻寄りに立ち、体勢を低くして少しだけ見上げるようにする。

こうすると、手前の桜の大木と枝が張り出してきて、あたかも、自分も絵のなかの人たちとともに宴に加わっているかのような気分が味わえるという。

作品の世界に見る者が飛び込むという点では、現代美術におけるインスタレーションを髣髴とさせる。

だが、おそらく西洋美術の歴史からいえば、インスタレーションという手法は、作品だけで完結してしまう傾向が、あまりにも長く続いてきたことへの反省から生まれたものではないだろうか。

日本美術のばあい、作品は、それ自体では完結せず、「余白」というか、「遊び」の部分が、かなり大きいように思われる。

鑑賞者が、美術品に積極的に歩み寄り、参加することでようやく一つの作品が完成するというのが、日本美術の大きな特徴なのではないか。

著者は、ここから考えを発展させて、「参加する視線」とは、単に、日本美術の鑑賞法にとどまるものではなく、「一種のコミュニケーション術であり、ライフスタイルでもある」と宣言している。

「情報を発信するほう(作る側)は、完璧に出来上がった情報を与えるのではなく、情報を受け取るほう(見る側)に解釈してもらい、さらには(中略)大きく展開していく余地を残し、あえて未完でシンボリックな表現をしているのである。

それを、お互いに何もいわずに理解し合い、与えられた情報以上の効果を生み出すことにより、最高のコミュニケーションを成立させる。

つまりお互いが芸術家なのだ」

[ コメント ]
そういえば、山田芳裕の「へうげもの」という、戦国武将にして茶人の古田織部を主人公にしたマンガでは、古田をはじめ武将たちが、茶会を開いては、おのおの持っている茶道具の名品(名物)を自慢しあう様子が描かれている。

多分に誇張はされているが、美術品が、彼らにとって重要なコミュニケーションツールであったことはまちがいない。

ひるがえっていま、博物館で展示される日本美術の名品、あるいは、そのつくり手たちと鑑賞者たる私らは、十分にコミュニケーションがとれているだろうか?

冒頭で触れた東京国立博物館の物販コーナーでは、「風神雷神図屏風」の風神と雷神をキャラクター化したオリジナルのフィギュア(BE@RBRICK)が販売されていたそうだ。

いまや、ガラスケース越しにしか見られない本物の作品よりもむしろ、こうした「手でいじって楽しむツール」こそ、日本美術を“鑑賞”するにふさわしい形なのかもしれない。

■32夜320冊目

2024年4月18日から、適宜、1夜10冊の本を選別して、その本達に肖り、倣うことで、知文(考えや事柄を他に知らせるための書面)を実践するための参考図書として、紹介させて頂きますね(^^)

みなさんにとっても、それぞれが恋い焦がれ、貪り、血肉とした夜があると思います。

どんな夜を持ち込んで、その中から、どんな夜を選んだのか。

そして、私達は、何に、肖り、倣おうととしているのか。

その様な稽古の稽古たる所以となり得る本に出会うことは、とても面白い夜を体験させてくれると、そう考えています。

さてと、今日は、どれを読もうかなんて。

武道や茶道の稽古のように装いを整えて。

振る舞いを変え。

居ずまいから見直して。

好きなことに没入する「読書の稽古」。

稽古の字義は、古に稽えること。

古典に還れという意味ではなくて、「古」そのものに学び、そのプロセスを習熟することを指す。

西平直著「世阿弥の稽古哲学」

自分と向き合う時間に浸る「ヒタ活」(^^)

さて、今宵のお稽古で、嗜む本のお品書きは・・・

【「嗜む」のすすめ】デザインにおける文字の重要性に焦がれ本を嗜む

絵のある本
福永武彦

粟津潔作品集 2 ポスター
粟津潔

粟津潔 造型思考ノート
粟津潔

粟津潔デザイン図絵
粟津潔

粟津潔のブック・デザイン
粟津潔

デザインになにができるか 粟津潔
粟津潔

粟津潔 デザインになにができるか
粟津潔、谷川俊太郎、針生一郎 他

Avant Garde #14

U&lc: Influencing Design & Typography

Herb Lubalin: Art Director, Graphic Designer and Typographer
Alan Peckolick、Gertrude Snyder

■(参考記事)


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