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【宿題帳(自習用)】ヒトは周囲の環境によって簡単に誘惑に負けちゃう生き物なんだ

Suuさん撮影

「右へでも左へでもなだれ打つときの「群」といふもののその怖さつたら」
(岡井隆『ネフスキイ』より)

仕事でも、プライベートでも、無意識の暴走をおさえて、目の前の誘惑に勝つのが大事・・・

とはいっても(^^;

実践は難しいものなのですが・・・

具体的に「誘惑に勝つ方法」の最良形態って、あるような、ないような・・・

そうは感じるものの、可能な範囲で贖うすべを知っておくことは、役に立つことあるから、下記の記事が参考になると思います(^^)/

まあ~、そうは言っても、すぐ負けて(夜にお菓子をたべたり・・・)しまうこともあるんだけどね(^^;

しかし、自制心の強い人は、実は、ただ、問題のコントロールが上手なだけという事実には、勇気づけられます(^^)

ただ、こんな誘惑になら、積極的に、魅せられても良いかなって思う(ニヤリ)

■海外小説の誘惑


「不死の人」ホルヘ・ルイス・ボルヘス(著)/土岐恒二(訳)

[ 内容 ]
永遠の生命を求めて砂漠の中の不死の人々の都にたどりついた古代ローマの将軍の怪奇な運命…ギリシア・ローマ・バビロニア、現代ドイツ、アルゼンチンなど時間と空間のさまざまな迷宮の中に人間の不条理な生を描くボルヘスの傑作短篇集。

[ 問題提起 ]
もしもあなたが文学マニアならば、遅かれ早かれ、かれの作品を手に取る日が訪れることことでしょう。

ボルヘスは、文学宇宙の北極星。

あらゆる星たちのなかでひときわ輝き、その星を中心に、すべての星座が輝く、そんな星です。

ホルヘ・ルイス・ボルヘス(Jorge Luis Borges、1899年~1986年)。

かれは詩人であり、アンソロジストであり、2千数百年にわたる文学を自由自在に引用し、おもいがけない脈絡をあたかも自然に導き出し、魅力的な文学講義をおこなう、文学愛に満ちあふれたペダンティックな語り手でもありました。

しかし、ここではまず作家ボルヘスについて語ってゆきましょう。

かれはもっぱら短篇だけを書きました。

かれの数ダースの短篇には、無限、迷宮、不死、円環、あるいは虎、そして薔薇、あるいはタンゴの流れる酒場で繰り広げられる荒くれ男たちの決闘が描かれています。

作品集は、数えように拠っては膨大にありますが、大事な作品集は、以下の4冊。

『伝奇集』(原著1944年 岩波文庫)

『不死の人』(原題:エル・アレフ1949年 白水Uブックス)

『ブロディーの報告書』(原著1970年 白水Uブックス)

『砂の本』(原著1975年 集英社文庫)

原著出版年を見てもらえるとわかるとおり、前期と後期のあいだに21年もの開きがあります。

実は、そのあいだにボルヘスは(遺伝に拠って)視力を失い、盲目になってしまいます。

もっと言えば、かれはやがて中年期に自分の視力が失われてゆくだろう、という昏い予兆とともに思春期以降の人生を生きてきたともいえます。

文学好きの、読書好きのボルヘスの読書のよろこびは、つねに昏い予兆を響かせてもいました。

最初期の短編集『伝奇集』のなかに、ボルヘスが生涯にわたって追求する重要な主題が、すべて出ています。

とりわけ重要なのが、冒頭に収録された『トレーン、ウクバール、オルビス・テルティウス』。

<人間の思考=観念は非在のものであるにもかかわらず、複製され増殖してゆき、やがて現実世界を浸食し、やがて崩壊にいたらしめる>

まさにこれこそが、ボルヘスの主題群の中心です。

そう、<肉体および現実世界は消滅を運命づけられているけれど、対照的に観念の世界は永遠である。>これがボルヘスの生涯にわたるステートメントでした。

同じく『伝奇集』収録の『バベルの図書館』もまた、ボルヘスの代名詞になってゆきます。

<無限を孕んだ迷宮としての図書館>というイメージ。

そう、ボルヘスにとって、書物こそが、図書館こそが、永遠の息づく棲家でした。

[ 結論 ]
さて本稿の主役、短編集『不死の人』は、運命に翻弄される人間、というような主題が増え、多くは暗いトーンに覆われています。

冒頭に収められた短篇『不死の人』は、こんな話です。

古代ローマの軍人だった主人公が、砂漠の彼方に不死の人々の住む秘密の都を探しに行こうとおもいたつ。

いくつもの都市を訪ね、いろんな人々を目撃し、いろんな体験をした。

ようやくたずねあてた不死の人たちの都は、思索に閉じこもった人たちの都のまたの名だった。

やがて主人公にも死が近づく、最後に残されたのは、言葉だった。

いかにもボルヘスらしい主題でありながら、同時にボルヘスのただならない実存の不安定をもまた感じさせます。

実は、この短編集が出版された1949年は、ボルヘス50歳。

すでにペロン軍事政権が発足して3年目です。

ボルヘスはペロンに反対したため政権成立とともに、ブエノスアイレスの場末の市立図書館の司書の職からも追われてしまいました。

なお、同書収録の短篇『神の書跡』にも、ボルヘスが被った受難の影が差しているようにおもえます。

こんな話です。

<カロホムの神官が、征服者の手で地下牢に閉じ込められ、苦労の末に、ジャガーの紋章のなかに神が遺した魔法の一文を読み取る>、そこに、自分を陥れたペロン政権への呪詛と嘲笑が聞こえてはこないでしょうか。

この短編集のなかにの<運命><復讐>という主題は、不穏な輝きを備えています。

しかしそんななか、これもまた同書収録の短篇『アレフ』には、センチメンタルでロマンティックな魅力があります。

ボルヘスのなかで数少ないラヴリーな魅力を放っています。

男は、愛する美しい妻ベアトリスに先立たれ、哀しみと憂鬱のなかにいます。

かれは文学者。

死んでしまった妻のいとこにいかにも俗物な、下手くそな文学好きがいます。

男は義理でその男のヘボい作品につきあわされたりします。

そんなことがありつつも、地下室で男は「地上の一点でありながら世界の全てを包含する一点」を見つけます、それはほとんどパノラマのように世界のすべてが畳み込まれていました。

もちろん男はそこで、死んだ妻に遭遇します。

なんて感動的な体験でしょう。

しかし物語は淡々と終ってゆきます。

「われわれの精神は穴だらけで、そこから忘却がしみこんでくるのだ。

そしてわたし自身、寄る年波に侵蝕されて、いまではベアトリスの面影さえ歪めたり、ぼかしたりしているのである。」

その後、ボルヘスにとっては憎いペロン政権が倒れ、新政権樹立後は、うってかわってボルヘスは国立国会図書館長になったり、アルゼンチン文学アカデミーの会員になったりして、輝くばかりの名誉を獲得します。

しかし、そのときボルヘスは、もう視力を失いつつありました。

後期は、すでに盲目ですから、作品は口述筆記に拠って書かれています。

そのせいもあって、おはなしのおもしろさ、ボルヘスらしさが、わかりやすくシンプルに前面に出てきています。

またボルヘスはすでに国際的成功も名声も得ていますから、大作家の余裕が感じられます。

最晩年の短編集『砂の本』の各短篇には、ほとんどビギナーズ・ガイド・トゥ・ボルヘスという趣があります。

そう、ここでボルヘスは、あたかも自分自身のカリカチュアを描いているかのようです。

ただし、その線は歌うようで、なんとも幸福に満ちています。

ボルヘスは書きました、言語は引用のシステムである。

もしも凡百の著者がこんなせりふを書いたところで、いたってのどかなもの。

しかし、ほかでもないボルヘスがそう書いたとき、そのせりふはにわかに不穏な輝きを帯びてきます。

そう、そのせりふは予言のように響きます、ありとあらゆる文学作品がボルヘス宇宙のなかに吸い込まれてゆくその予言のように。

しかも予言は的中します、ボルヘスは引用に拠って、自分の作品のなかに既存の文学を招き入れ、その作品を新たな文脈に置き直し、別の輝きを与え、それと同時にいったんボルヘスの作品を読んでしまった者には、まるであたかもボルヘスこそがそこに引用された作品の真の作者であったかのような錯覚を生み出します。

そう、ダンテも、セルバンテスも、シェイクスピアも、チョーサーも、真の作者はボルヘスであったかのような!

ボルヘスは、文学宇宙の北極星。

あらゆる星たちのなかでひときわ輝き、その星を中心に、すべての星座が輝く、そんな星。

[ コメント ]
文学マニアにとって幸福とは、あるいは、ボルヘスの術策にはまることのまたの名かもしれません。

いいえ、それ以外に、文学マニアの幸福などあろうはずがありません。

「インド夜想曲」アントニオ・タブッキ(著)/須賀敦子(訳)

[ 内容 ]
失踪した友人を探してインド各地を旅する主人公の前に現れる幻想と瞑想に充ちた世界。
ホテルとは名ばかりのスラム街の宿。
すえた汗の匂いで息のつまりそうな夜の病院。
不妊の女たちにあがめられた巨根の老人。
夜中のバス停留所で出会う、うつくしい目の少年。
インドの深層をなす事物や人物にふれる内面の旅行記とも言うべき、このミステリー仕立ての小説は読者をインドの夜の帳の中に誘い込む。
イタリア文学の鬼才が描く十二の夜の物語。

[ 問題提起 ]
正体不明の何者かを追って主人公が彷徨う筋立ては、タブッキの得意技だ。

死体置場の番人が身元不明の他殺死体の正体を探ろうとする『遠い水平線』や、「あの男」に会わなくてはいけない主人公がリスボンの街を流れ歩く『レクイエム』。

それに先だって書かれた『インド夜想曲』は、ページを開いた瞬間から、肌にはじっとりと湿った暑さがまとわりつくような一編だ。

インドについての通り一遍の連想のせいではない。

読んでいると、息を詰めて何かを見つめるときに流れる嫌な汗を思い出す。

語り手の男は、失踪して生死も定かではない親友シェルヴィエルを追って、インド各地を放浪する。

冒頭から前途多難な旅を予感させる十二章からなるこの物語は、男の軌跡に沿って、ボンベイ(ムンバイ)、マドラス(チェンナイ)、ゴアという都市ごとに三部に分けられている。

[ 結論 ]
男はシェルヴィエルの足跡をなぞるかのように、手がかりを知ると言われる人物を訪ね歩くのだが、糸口は常にぬか喜びに終わる。

というのも、男が出向いていくそのタイミングを見計らったように、シェルヴィエルはすでに別の土地に旅立った後なのだ。

行方が杳として知れないシェルヴィエルとの「隠れんぼ」のような旅は、夢と現(うつつ)の合間に立ち現れるようなミステリアスな体験と意味深なメッセージを拾い集めながら、コラージュされていく。

ホテルや病院、鉄道休憩室など、物語に登場するのは、すべてインド実在の場所だ。

にもかかわらず、男が出会う人物とのエピソードはどれもふわふわと幻想的な印象が強い。

不妊の女たちに崇められたという巨根の老人、泥棒を働いたモノを部屋にそっくり忘れていった女、フィラデルフィアの電話帳を手に片っ端から手紙を出す青年・・・

それらは共通して、現実という地平に不意打ちで開いたクレバスを覗き見たときのようなぞっとする感触を残す。

VII 章では、男はマドラス=マンガロール街道のあるバス停留所で、猿を連れたすばらしく目のきれいな少年に出会う。

少年がおぶっている猿だと思った生き物は人間で、少年は自分の兄だと男に告げる。

兄には過去も未来も見える能力があるのだ、

〈「あなたのカルマを知りたいですか、たった5ルピーですよ」〉

と続ける。

ところが返ってくるのは思いがけない答えだ。

〈「兄はだめだって言うんです。

あなたは、もうひとりの人だって」〉

このあたりから、読者の胸にはざわざわとした疑問が湧いてくる。

男が探しているシェルヴィエルとは何者なのか?

いや、それよりもこの旅する男は誰だろう?

男が探しているのは、本当は誰だと言うのか?

その答えは、正確には“答えらしきもの”は、最終章で見えてくる。

場所はゴアのリゾートホテル。

男は、

〈人間の惨めさ〉

を写真に撮って生計を立てているという女性カメラマンと出会い、彼女から仕事を尋ねられて

〈強いていえば本を一冊書いている〉

と言う。

驚くことに、男が説明するその小説の筋は、男が旅してきたこれまでととてもよく似ているのだ。

それが意味するところは・・・?

興味のある人は、144~148ページを熟読されたし。

[ コメント ]
本書の意図をおぼろげながら悟った後で読み返してみると、コラージュとしてしか見えていなかった男の旅の記憶が、今度は一連のうねりでもって迫ってくる。

IV章の鉄道休憩室で交わされたこの会話が言い当てているように。

〈「この肉体の中で、われわれはいったいなにをしているのですか」僕のそばのベッドで横になる支度をしていた紳士が言った。〉

〈「これに入って旅をしているのではないでしょうか」と僕は言った。〉

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