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【メモ(memo)】自分の現実を見てみると

今のあなたの現実を、よく観察してみてください。

自分の意識が、そこに反映されています。

意識とは、もちろん、自分でわかっている意識と、そして、自分の知らない潜在意識と両方です。

今、物事が思うようにいっていないとき、あなたの意識は、どうなっているでしょうか。

また、すべてがうまくいっているときの自分の中の意識は、どうでしょう。

例えば、世の中は厳しい、人間関係は難しい、という思いがあるのなら、現実は、確かに、そうなっているでしょう。

実際に厳しいから、人間関係が本当に難しいから、そう感じるんだという方もいるでしょうけれど、現実と自分の思いとどちらが先か、答えは「思い」です。

自分の思いが現実を作る、というのは、よく目にする引き寄せの法則、そのままです。

なので、今、なんでこうなっているんだろう?

なんて思うときには、一度、現実と向き合いながら、

それと同調している意識が自分の中にないかどうか、再チェックしてみる良いチャンスです。

このコンセプトは、自分の考え方がよくないんだ、自分のせいなんだ、と落ち込むためにあるのではありません。

逆に、良いところは、自分の意識が現実を作るなら、自分の意識次第で、現実を自分で変えていける!とパワーをもらえるところです。

実際に、自分の普段考えること、思うこと、言うこと、意識が現実を作るのだとしたら、私たちは、普段からもっと考えること、思うこと、言うことがポジティブであるように意識すべきと言われますが、必ずしも、そうではないので、注意してくださいね。

ですが、この知識がないために、無条件にポジティブ・シンキングを過信し実行してみたり、無意識にネガティブなことを考えたり、不安や恐怖で自分を取り巻いたり、欲しくないものや、やりたくないことにフォーカスしてしまいます。

すると、本当にそれが現実になり、「ほら、やっぱり世界は冷たいところだ」とさらに思い込むようになって、本当に悪循環です。

本当は、もっと心を開いて「世の中はもっといいところ、優しいところ」と信じて、そう思うことから始めると良いのです。

そして、自分は、もっと良いものに値する、人生にはもっといいことがある、と思い込むようにします。

信じるものは救われると言いますよね。

信じるものは、自分で自分を救うことができるのです。

だから、ネガティブになりそうなときこそ、前述のプラス思考のリスクに配慮しながら、ほんの少し、ポジティブを信じるクセをつけてみましょう。

あなたの周りで悪いことばかりだと思うなら、その中から、幸いだと思うことを探してみます。

過去にも、一見マイナスに見えたことでも、後から考えれば、そのおかげで逆によかったと思えることは、どんな人にもあるはずです。

いつものことですが、私たちの心の持ち方で、現実も変わってくると覚えておきたいですね。

【今日の短歌(言葉の織りなす世界への信頼(信頼は信頼する側の特性になる)と日常の風景のなかに〈私〉が〈私〉である不思議)】

小島ゆかりさん著作の『月光公園』のあとがきには、
「私が私であることの不思議をふかく覗き込んだ時期」
であり、
「世界に投げ出された者としての〈個〉の存在へのかなしみ」
を詠ったとあり、この小島さんの言葉は、
「すべての人間は死といふものに向かつて時間の座標の上をゆつくりと (しかし確実に) 移動してゐる裸形の生命者」
であるという高野公彦さんの言葉と遠く呼応して、私たちの心を打つ。

ものの影あはく揺れ合ふ春昼をひとつ光りてつばくらめ飛ぶ
闇に入りてさらなる闇を追ふごとき鳥いつよりかわが裡に棲む
散薬の冥(くら)く降りゆく身の内の虚空をおもふ霜月の雨
風かすか蜜を含みて天地(あめつち)のあはひ揺れをり花また人も
藍青の天のふかみに昨夜切りし爪の形の月浮かびをり
(小島ゆかり『水陽炎』より(1987年) )

ひそかなる恐怖のひとつ閉め際にガラスは強く風の尾を嚙む
ぶだう食む夜の深宇宙ふたり子の四つぶのまなこ瞬きまたたく
ペテルギウス氷(ひ)のにほひせりガラス窓(ど)に凭りつつはつか心臓燃ゆる
もくれんのわらわら白いゆふぐれは耳も目鼻も落としてしまふ
ゆふぞらにみづおとありしそののちの永きしづけさよゆうがほ咲(ひら)く
街路樹に暑のほてりあるゆふまぐれわが天秤は揺れはじめたり
柿の朱は不思議なる色あをぞらに冷たく卓にあたたかく見ゆ
砂の公園みずの公園ゆふぐれてのち影の棲む月光公園(げつくわうこうゑん)
在ることの貧を競ひてこの夜のわれとくれなゐいちご照らさる
子供と子供すれちがふときまたたかぬ魚の眼をもて見合ふしばらく
時かけて林檎一個を剥きおはり生(き)のたましひのあらはとなれり
時間ふとゆるむおもひす蜂の屍のあたりに上(のぽ)る冬のかげろふ
秋の日のさびしいひなた 鶏頭が兵隊のやうに並んでゐるよ
秋霊はひそと来てをり晨(あした)ひらく冷蔵庫の白き卵のかげに
上向くはうつむくよりも美しく秋陽の中に葡萄もぐ人
台風の近づくゆふべ僧院のしづけさにわれは茸煮てをり
箱詰めの卵の数をかぞふるに七つ目あたりにてわからなくなる
(小島ゆかり『月光公園』より(1992年))

問ひつめて確かめ合ひしことなくてわれらにいまだ踏まぬ雪ある
(小島ゆかり『ヘブライ暦』より(1996年))

ぎんがみを解けばかすかに霧立ちて角(かど)やはらかきチョコレート出づ
ぎんがみを手はたたみつつ霜の夜をぎんがみのこゑ小さくなりぬ
この町を愛しすぎたる人ならんバス停として今日も立ちをり
チョコレートのぎんがみありき雪山で死にたる友の遺品の中に
ひるがほのかなたから来る風鳴りが銀の車輛となる夏の駅
まひるまの回転扉くわいてんし亡き人はみな消息不明
携帯電話ぱきんとたたみそのやうに心をたたむ秋の街角
白骨が粉雪となり降る夜をおもへばしづかすぎるこの夜
(小島ゆかり『憂春』より(2005年))

ビル街のよぞらに雨後の月あかしむかし御油[ごゆ]より出でし夏の月
雪の夜は雪のむかうにもうひとつ街あり馬に乗る人がゆく
(小島ゆかり『折からの雨』より(2008年))

ちちははの生の緒しぼむ寒き昼うどん煮る湯が噴きこぼれたり
ねむりゐるからだのうへに猫が来てひとつながりの闇となりたる
(小島ゆかり『さくら』より(2010年))

九か月癒ゆるなければ円形脱毛あるがふつうのわたしとなりぬ
(小島ゆかり『純白光』(2013年)より)

へうたんをもちてあゆめばあをぞらのくらくらとしてわらひこみあぐ
羊羹にぬつと刃を入れとりあへずまだ大丈夫なにかわからねど
卵焼き上手にできてわつはつはつ一人笑ひのこころ謎めく
梨おもく実れる九月 垂直にしろがねの宇宙飛行士発てり
(小島ゆかり『泥と青葉』(2014年)より)

「前世のどこかで一度蜂でした」といふ人ありてみな空を見る
ちる花におくれて風にきづくときわたしも風のなかなるひと木
ゆふぞらを身ひとつで行く鳥たちは陽の黄金(わうごん)につつまれて飛ぶ
リードにてつながる犬と人見れば人間である自分がいやだ
われ無しで子らはもう生きわれ無しでもう生きられず老いたる父母は
街はもうポインセチアのころとなり生老病死みな火と思ふ
前の人の体温残るタクシーにふかくすわりて体温残す
(小島ゆかり『馬上』(2016年)より)

いちじくと猫もたれ合ひねむりをり午後の陽たまる古きテーブル
くりかへし夏はめぐりて瓜を食むおかあさんおばあさんひいおばあさん
ざつとまたひと雨あらん包丁に水よくなじむ夏のゆふぐれ
チーズ濃く香る朝なり遠景に書物のごとき森ある九月
はるぞらのどこかチカッとひかりつつあけつぱなしの文房具店
ゆく夏の母のわたしは油蝉、祖母のわたしは蜩(ひぐらし)ならん
一羽のみ昏れのこりつつ白鳥は水上駅のやうにさびしき
学生の牧水がゆきし夏の旅追ひかけて深き秋の旅ゆく
寒がらす鳴けばにはかに黒髪のつやめきいでて水飲む娘
亀は石に石はときどき亀になりとろりと瞑(つむ)る時間のまぶた
亀を乗せ石やはらかく濡れてをり未生・生前・死後の夏あり
群鳩は噴水をつかむあそびして冬空へちる微粒子われは
歳晩へ急ぐ時間をせきとめるひらがなばかりの小一の歌
春畑の土くちばしに含みたし鳥になりこのうまさうな土を
人はやさし人はややこし春の夜の指はきりなく駄菓子をつまむ
雪のにほひかすか嗅ぎあて空腹は空にちかづく時間とおもふ
雪雲のはれてかがやく雲のあさ大失敗をするかもしれず
千年前、万年前の葉音して武蔵野に風の季節はじまる
湯にほてるからだやはらかくねむりたりもみぢの山の夜のふところ
豆腐一丁水に沈めてしづかなるこよひ豆腐も雨を聴きをり
病む母をねむらせ長くすわりをり臀部にたまるさびしき時間
霊園に九月のしろい風ながれ蜥蜴は縞の貌吹かれをり
(小島ゆかり『六六魚』(2018年)より)

遠方といふはるかなる場所があり枯芝色の犬とあゆめば
尿する犬見てあれば人生の途中の時間あたたかくなる
冷えわたる夜の澄みわたるかなたよりもうすぐ天てんの雪麻呂(ゆきまろ)が来る
(小島ゆかり『雪麻呂』(2021年)より)

あづま路は遠しさもあれこの度の内つ海さへ越えぬ夢路は
あなたとふ存在を愛で秋の陽の黄金(くがね)をも賞で陸(くが)澄み渡る
うるわしきそらとふものもあるものを黄金(くがね)の水をくみたまへまず
ポケットに煙草を探す路地裏に点すときわづか掌のうちは聖
わうごんの花びら漬くる酒を賜べ半地下室にまよふ夕光(ゆふかげ)
わがうへに夏在るや今うたがひは青蕣(あさがほ)の如く発(ひら)かむ
神も死にたまふ夜あらむ夏が死ぬ夕暮れ吾れは鳩放ちやる
天蓋はただいちにんのために在る花折る人の孤絶のために
凍てし夜のふねにはりはり食みゐたる春菊サラダ薄く苦き生(よ)
白き花の地にふりそそぐかはたれやほの明るくて努力は嫌ひ
文に代へ碧瑠璃(へきるり)連らね贈り来し人によ夏の氷(ひ)の言葉遣る
片肺のすこし翳れる秋よそれ空を斜めに見てをりたるは
夢ぬちに繊月懸かりゐたりけり不確かに橋渡るありけり
約せしはあぢさゐ色の絵空事絵日傘さしていづちに行かむ
檸檬(リモーネ)が滴り白布薄染みをかこちがほなる夏ゆふまぐれ
紀野恵『架空荘園』(1995年)

あつけなく世界がをはるわけぢやなくこのグーグル化された此岸へ
しばしばもこの一瞬を撮りつづけ真実だけがピンボケだつた
もうちよつと左に寄つてくれないかいやもうすこし右でもいいから
わたくしが<私>を検索するといふ遊びの果てに襲ひ来るもの
何処までがこゑ何処までが身体か抒情ふるはせながら啼く百舌鳥
死に急ぐわけではなくて生き急ぐ便器に坐りスマホ繰るひと
雛菊の首の折れたるところより腐るゆふべの言葉は無力
日常の瑣事の坩堝にけぶり立つ けふ咲く花はけふを忘れる
(菊池裕『ユリイカ』(2015年)より)

【参考図書】
「瞬間を生きる哲学 <今ここ>に佇む技法」(筑摩選書)古東哲明(著)

「〈在る〉ことの不思議」古東哲明(著)

「ハイデガー=存在神秘の哲学」(講談社現代新書)古東哲明(著)

「我と汝・対話」(岩波文庫)マルティン・ブーバー(著)植田重雄(訳)

「悲しみの力 「悲しみ」と「切なる思い」が私たちを健全な人間にする」スーザン・ケイン(著)坂東智子(訳)

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受け流して成長しよう
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始まりは、1、2、3・・・・・・
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