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音楽に縋る感覚が消えた。


ずっと音楽に縋っている感覚があった。

辛い時、嬉しい時、自分を奮い立たせる時…
その時の自分の心模様にあわせて
聴く音楽を探しながら選択しながら聴いてきた。

謂わば、処方箋のような感覚で音楽を聴いてきた。

思春期特有の自分の中にある葛藤や怒り悲しみなんかを音楽を聴くことによって鎮めてきた。

誰にも話せない悩みや
理解されない自己の問題さえも
音楽を聴けば、歌詞を読めば、
ひとりで抱え続けることができた。

自分のために作られた音楽などこの世には存在していないと分かってはいても、自分のために作られたのではないかと錯覚するような音楽に
いつも救われてきた。

音楽を聴き、音楽に寄り添ってもらい、
音楽に助けられるたびに思うことはただ一つ。
「自分もこんな音楽を作りたい」
「自分もこんな音楽を歌いたい」だった。

それがいつしか
「自分の方がもっとすごい音楽を作れる」
「自分の方がもっと上手く歌える」
という悶々としたものに変わる。作り手や歌い手に対する嫉妬にも似た感情を抱くようになった。

そうして根拠の無い自信だけを携え
歌手オーディションを受けた。詐欺だった。
根拠無い自信が根拠無くへし折られた瞬間だ。

音楽をする側になるための手段としての
「他人に引き上げてもらう」
「他人の才を借りる」という選択肢が
わたしの中から消え失せた瞬間でもあった。

作詞作曲をするようになり
自分と他人の才の比較をしなくなった。
没頭は己との対話だと思う。
他人への嫉妬心なんかはこの頃に消滅し
「新しいジャンルの音楽を作りたい」
「私にしか書けない歌詞を書きたい」
という雑念混じりの向上心や創作意欲が生まれた。

作れば作るほどに、雑念は減り純度は増す。


私に生きる希望を与えるためだけに、
私を苦しみや絶望から救うためだけに、
私が私のためだけに、
他の誰でもない私に向かって書いた曲と歌詞。

そんな曲と歌詞が増える度
私は私という人間の輪郭を掴むことができた。

矛盾しているようでもあるが
その原動力の最たるは「売れてやるんだ」という自分と他人へ向かう怒りだった。

売れたい、評価されたい、褒められたい、

そんなことを思えば思うほど
私の作った音楽を貶す人が現れた。

売れたい、評価されたい、褒められたい、
と思うのは何故か。
売れていない、評価されていない、褒められていない、現実が見えているから。
そういう現実に眼を向けて自ら見続けているから。

絶対売れる、絶対評価される、絶対褒められる、
そう思えないうちは
そういう未来はやって来ない。
というか、やって来ていても気づけない。

私が音楽を作る時の原動力は
反骨精神と怒り。

このふたつしかなかった。

創作意欲を掻き立てるために自らそういう報われない現実に眼を向けていたような節がある。
いま思えば。

苦しみや悲しみ、希死念慮さえも
その根底には必ず「怒り」が存在している。

怒りは生への執着であり
希死念慮もまた生への執着が故である。

生への執着を無くしそうになる度
意識的にも無意識的にも作詞作曲を繰り返した。

どちらが後でも先でもない。
作詞作曲 = 生への執着を生む
ただそれだけだった。

作詞作曲を初めてから
音楽を聴くという行為自体がめっきり減り
その代わりに自分の音楽をすることが増えた。

アウトプットのためのインプットというか、
創作という目的のための作業のひとつとして
意図的に意識的に音楽を聴くことはあっても
以前のような聞き手側のスタンスでは無くなった。

音楽との距離感は大きく変わってしまったが
なんなら音楽との距離が少し縮まったような気がしてそれはそれで楽しくもあり苦しくもあった。

そういう音楽に対しての色々な面が変化する事はあっても、音楽への縋り方という部分に関してはずっと一貫していた。
何かに縋っていたかったのだと思う。
その対象がずっと音楽だけだった。
縋る対象はお酒やタバコの人もいれば、スポーツの人もいるし、恋愛の人もいると思う。

わたしはずっと音楽に対して救いを求めていた。

自分の作る音楽にも、他人が作る音楽にも。



それがここ数年かけて
どんどん薄れていくような感覚があった。

音楽に何かを求めることが減っていった。

そしてついに、消えた。

売れようが売れまいが
評価されようがされまいが
褒められようが貶されようが

私の音楽を私が作った。
あなたがあなたの音楽を作った。

ただそれだけだった。

技術がどうこう、才能がどうこう、
うんぬんかんぬん、、
なんかそういうものに拘ってみたり
すごいと言われる音楽を聴いてみたり
そういうことへの興味が失せた。

その時その音楽を聴いている自分が心地よければそれでいい。
自分の音楽を聴いた誰かが心地よいと感じてくれればそれでいい。

音楽で不足感を紛らわせたり
塞がらない心の穴を塞ごうとしていた。

でもそもそも心の穴なんて塞がなくてもいいと思った。塞ごうとするから苦しい。苦しくなる。

息を吸おうと意識し過ぎると過呼吸になる。

心にあいた穴だって、自分の一部じゃないか。
自分の一部を排除しようとするから苦しい。
自分自身を否定すれば苦しくなるのは当たり前だ。

不足していると思うから不足していると思えてくる。
不足している現実が見えて来る。
不足している物事にばかり眼が向いていく。
不足を求めて更なる不足を無意識に呼んでいる。

他の誰でも無い自分自身がここに存在している。
それだけでもう何もかも満たされている状態じゃないか。自分の外に求めるものなんて何一つない。
求めるならば「自分は周りにとってどういう存在で在りたいか」「自分は自分にとってどういう存在で在りたいか」という在り方だけじゃないか。

わたしは今までずっと
抜けた乳歯をキレイに保管しており何かある度一つ一つ眺めてはもう戻って来ないその乳歯を悲観するように生きていた。(?)

しかし、乳歯は乳歯でしかないだろう。(?)

乳歯が抜け落ちた後の歯茎にも眼を向けろよ。(?)

大人の歯が生えているじゃないか。

大人の歯と歯茎を讃えながら労わりながら
時に虫歯や歯周病に気をつけながら
口腔内全体に感謝をしながら
生きていこうじゃないか。

炭酸の飲み過ぎは歯が溶ける。(?)
刺激は求め過ぎると毒になるぞ。
ミイラ取りがミイラになるぞ。(なんか全然違う)

抜け落ちた乳歯をかき集めてみては
可哀想に可哀想にと嘆くのはもう辞めよう。
それじゃあまるでただの変態妖怪だ。(?)


こんなこと言っておきながら世の中や政治には求めてばっかなんだがな。

人間はいつだってブーメランなのさ。





(?)





















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