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広島県民以外知らない広島では当たり前の原爆の授業【広島生まれ広島育ち】

わたしは広島生まれ広島育ちです。

22歳で広島を出て一番驚いたこと

それは
8月6日の朝8:15に
黙祷をしないこと。

その日のその時間は
広島に戦争で原爆が落とされました。

広島ではその日が近くなると
テレビは原爆関連でいっぱいですし

8月6日の朝8:15になると
町中にサイレンが鳴り
皆揃って黙祷をはじめます。

テレビの中でも、そのサイレンの鳴る1分間は
黙祷をしています。

それは言わば
あの日を忘れないために。

あの日の過ちを繰り返さぬように。

そういう儀式です。


夏が来ると
思い出すのです。

この晴れた空を

突如襲った黒い弾を。

見て、聞いて、想像したことでしかないけれど
それでも思い出すのです。

絶対に繰り返してはいけないことがあると。




私は幼稚園から高校卒業まで
様々な原爆についての平和の授業というものを
受けて育ちました。

それは広島で生きている学生ならではの
至極当たり前の授業です。

夏になれば原爆ドームに出向き
被爆者の方の当時の話や
被爆後の人生の話を聞く。

被爆者の遺族の方からの話を聞く。

それはごく当たり前のことでした。

語る人は皆
60年、70年と時が経っていても尚
昨日の出来事のように涙を流しながら語られます。

昨日、最愛の友が連れ去られたかのように。

昨日、この目に地獄を見たかのように。

その姿や震える声は
今も尚
私の中に生きています。

そうやって語り継がれていくことが
当たり前だと思っていました。

けれど、一歩広島から外に出ると
それは極めて稀な事柄でした。

黙祷も無ければ
折り鶴も無い
平和の授業も無ければ
空襲の歌も歌わない。

音楽の授業ではたくさんの
原爆の歌や折り鶴の歌を歌い、学びました。

はだしのゲンだって
当たり前に図書室にあったし
火垂るの墓も当たり前に何度も見た。


それらは
広島ならではの
平和教育だったのだと

気付きました。

だとしたら

私はもっと被爆者の方や
遺族の方の
その命を削りながらしてくださっていた話を
懸命に訊くべきでした。

この胸に焼き付けるべきでした。


当たり前のように
幼稚園から始まったその平和教育は
物心の付く中学生に上がるくらいには
半ばうんざりするものへと変わっていきました。

またその話かよ、

前も聞いたよ、

もう知ってるよ、

戦争は良くないんでしょ、


そういう雰囲気の中で
毎年嫌というほど繰り返される授業

とても貴重な経験をさせてもらえているという
事実を知れないままに
学生生活を終えました。

そのことを
とても残念に思う反面
誇りにも思うのです。


今年も私は
誰も黙祷をしない街で

黙祷をします。





追伸
良い感じにstandfmのしゃべりがむかつく感じですいません。。

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