切れない包丁

台所に置いてある包丁は、大体切れない。ネギを断ち切れない。フランスパンは潰れていく。

この「切れない包丁と付き合っていくこと」、これは生活の中にある不自由の形の一例であるが、この切れない包丁の存在は僕らの日常を象徴していると思う。切れるようにする方法はいくらでもあるし、それはとてもシンプルな作業だし、お金も時間もそれほどかからない。でも僕らは切れない包丁と共に生きる道を選ぶでもなく選んで生きている。

そこにどうしようもない素晴らしさと、生きていくことの微妙な生々しさがあると思っている。いつも思っていたわけではない。突然にこういう感覚がどこかからか届いたのだ。

切れる包丁を手にしたときに、その包丁でネギを輪切りにしたときに、きっと感動するだろう。その感動を味わいたいと思うし、時に本当に味わうこともある。

でも、その包丁もすぐに切れなくなり、そこからまた僕らの日常が始まる。あんまり歓迎しないけど、でも切れる包丁しか持たない暮らしは大事なものを見失っているようにも感じる。

どうでもいいことだ。自分の日常のあれこれと同じくらいどうでもいい。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?