GotoTravelCampaign

「このゴートートラベルキャンペーンというものはですね」
首相の答弁に場内から失笑が漏れ、続いてあちこちから野次が沸き上がった。

4月7日の経済財政諮問会議ならびに臨時閣議で1兆6794億円の予算が認められた官民一体のキャンペーン「Go To Travel キャンペーン」は、コロナ禍鎮静の目途が立っていない中、7月22日から東京都を除く全国一斉でスタートすることになった。
施行前から危ぶまれていた通り、全国各所で小さなトラブルが多発した。いわく、佐賀の足湯で関西弁で会話するカップルが暴行された、京都からの旅行者が岩手の鍾乳洞奥地底湖に突き落とされた、博多からの旅行者が横浜中華街で地元の男に店を尋ね焼肉店に案内された、都民からの違憲申請で東京地方裁判所のウェビナー窓口がパンクした、汐留のD通本社ロビーに糞尿が撒き散らかされた等々。肝心の経済効果も、国民の自粛ムードや危険回避意識により数字が伸びず、夏休み期間中の申請数が目標の1割にも満たない427万組という結果となった。当然のことながら国民民主党をはじめとする野党がこぞって責任論を展開したが、政府は強硬に継続を主張し、東京オリンピック2020の直前である2021年春までの延長が閣議決定されるに至った。

艶やかの紅葉を見渡す東屋で八歳になったばかりのおさげ髪の少女が、両頬が洋犬のように垂れ下がった初老紳士の膝に座ってはす向かいの老婆に話しかけている。
「大ばあちゃんよかったね。あたしが頼んだんだよ。みんなが大ばあちゃんのことを呼べるようにしてって。ちゃあんとやってくれたんだよ。みんなの前でも大きな声で言ってくれたし。ね。おじいちゃん」
少女を膝に乗せた紳士は、見かけのわりに黒々と豊かな自らの頭髪を撫でつけながら相好を崩した。聞こえているのかいないのか、車いすに座る老婆は表情を変えずに中空を見つめている。
「おばあちゃん。とらさん。そろそろお部屋に戻りますよ」
東屋に近づいてきた白衣の女性が三人に、老婆の日光浴の終わりを促した。少女を膝から降ろした紳士は近寄ってきた看護師を制し、老婆の車いすを押す。夕暮れを予感させる蒼穹の下、車いすと三人は、長くなりかけた影を引きながら母屋に向かって歩き出した。
老婆の胸で揺れている大きな名札には、こう大書されている。
「後藤とら」


(このテキストはフィクションです。登場する人物・団体・地名・名称等は架空であり、実在のものとは関係ありません。)

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